「大郵便道路(116)」(2025年05月28日)

1942年2月3日、日本軍機がスラバヤを空襲した。オランダの海軍基地があったため
だろう。そしてその年の3月にスラバヤで日本軍政が開始された。1944年5月17日
には連合軍のスラバヤ空襲が行われた。そして終戦〜独立宣言と歴史は流れていく。

1945年10月25日、マラビー准将の率いるイギリスインド軍第23師団第49旅団
兵員6千人がスラバヤに上陸を開始した。オランダ東インドの終戦処理を行うために進駐
してきたAFNEI軍のスラバヤ派遣軍がそれだ。この進駐軍は日本軍が設けた戦争捕虜収容
所から収容者を解放し、日本軍を武装解除して本国に送還することを使命にしていたため、
上陸したAFNEI兵員は重武装していなかった。

しかしインドネシアを再植民地化しようとするオランダ人が多数、その陰に隠れてスラバ
ヤに戻ってきたことをインドネシア人は見逃さなかった。もちろんそれは連合国ヘッドク
オーターが立てている、日本軍が占領した諸国を進攻前の状態に復帰させる大原則に合致
したものだからAFNEI軍がおかしなことをしたわけではないのだが、独立を宣言したイン
ドネシア人にとってはおかしな、というより卑劣な政治ビヘイビアになった。

AFNEI進駐軍はインドネシア人にも武装解除を命じたが、急ごしらえのインドネシア共和
国正規軍と国土の独立を守ろうとする民間人およそ2万人は反抗姿勢を執った。終戦処理
と旧態復帰が一緒くたになされたら、独立宣言が泡となるではないか。

10月26日、共和国東ジャワ州知事と進駐軍司令官マラビー准将の間で、インドネシア
人の持っている武器を進駐軍に提出しなくてもよいという合意がなされたものの、准将と
側近数名が10月30日に市中見回りに出たとき、マラビー准将はプリブミの武装市民に
撃たれて死亡した。

そのとき、ジュンバタンメラ西岸北側にあるインテルナシオ銀行のAFNEI警備兵と橋に陣
取ったプリブミ武装集団の間で既に銃撃戦が始まっており、准将の乗っていた車がその間
に割って入ったような形になったようだ。
「その混乱した事態の中で、准将が包囲者のひとりと短い会話をしたあと、まだ十代と思
われるその者がいきなり准将に発砲した、と同乗していたスミス大尉は証言している。大
尉はその銃撃者めがけて手りゅう弾を投げた。そのときに乗用車の後部座席で爆発が起こ
った。准将はその場で死亡し、数日後に黒焦げの遺体が回収された。准将に随行していた
数人のイギリス人将校はカリマス川に飛び込んで難を逃れた。准将の死因は銃撃でなく爆
発で死亡したという説もあり、最終的に死因が確定されないまま、今日に至っている。」
拙著「スラバヤの戦闘」https://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html
にはそのときの状況がそのように書かれている。

その事件がジャカルタのAFNEI軍総司令部を硬化させ、AFNEI軍はスラバヤのインドネシア
人との戦争を開始するのである。AFNEI軍のスラバヤ攻撃は11月10日に開始されて激
しい戦闘が10日間続いた。空襲と戦車、そして艦砲射撃という圧倒的に優勢な敵を前に
して、現代戦争というものをはじめて体験したインドネシア人も健闘した。AFNEI軍は戦
闘機24機、シャーマン戦車24台、巡洋艦2隻と駆逐艦3隻をスラバヤ攻撃に動員した
が、インドネシア側は敵軍用機を2機撃墜したそうだ。

11月20日にインドネシア共和国軍がスラバヤから撤退したとき、スラバヤの街の多く
が瓦礫の山になり、10日間の戦闘でインドネシア側の軍人と一般市民1万5千人が生命
を落とした。20万人のスラバヤ住民が戦争を避けるためにスラバヤを捨てて内陸部に疎
開した。スラバヤの戦闘と呼ばれている事件がそれだ。[ 続く ]