「ブギス=マカサル(2)」(2025年06月01日) パソンペの始まりは帆船で近隣の島々に渡ることだったようだ。故郷であまり手に入らず 異郷にたくさんある物産を仕入れて故郷に持ち帰る通商活動がパソンペの本質だろう。か れらがティモと呼ぶ、乾季の東風の季節に、ブギス=マカサル人は西に向かって航海し、 行き着いた先で季節風が逆転するまでその地で商売しながら暮らした。雨季の西風の季節 をかれらはバレと呼び、それが帰郷に胸ときめかす季節の思いをかれらにもたらした。 パソンペを実践するブギス=マカサル人は商売を精神の核に置いたようだ。行った先の人 間に雇われて労働力を提供する使用人になることがランタウに比べて少なかったような印 象があるのは多分、商人になることによって独立自尊型自己存在のあり方が実現できるの をかれらが強く好んでいたことに関わっているのではないかという気がする。その方が異 文化人との宥和協調のために自分を枉げることを強いられる機会が少なかったためではあ るまいか。 それは同時に、パソンペ先での生活の基盤になる稼業での収入確保を厳しく実践するビヘ イビアを育んだ。たとえ半年間暮らすだけだとしても、惨めな暮らしぶりを好んで行うわ けがなく、また同郷者にそんな姿を見られることも故郷での自分の社会ステータスを悪化 させるものになる。そのためにかれらは自己繁栄に専心する商売人としてローカル倫理を 冒すビヘイビアを強く示す傾向から免れえなかったにちがいあるまい。 ヌサンタラのどこかの地方で、住み着いた外来の商売人で嫌われている者がたいていどこ そこの種族であり、えげつない商売を行うためにチナヒタムと呼ばれているという種族名 の上位にブギスと書かれているイ_ア語記事を昔読んだ記憶がわたしの脳裏にある。 シンガポールのブギス地区は1820年代にブギス人が移住してきてカンプンを作ったの が事始めだとシンガポールの町紹介に記されている。どの民族にせよ、移住者は移住先の 暮らしに慣れない間、寄り集まって生活するのが古来からの普通のあり方だったから、外 来者のカンプンが作られる形式は世界中で一般的な姿だったはずだ。 1849年にシンガポール在住ブギス人は2,669人いて、ひとつの勢力を形成してい たようだ。ただし、全員がカンポンブギスに住むいわれはないはずだから、カンポンブギ スがどのような規模だったのかをその数値から推測するのは無理かもしれない。 そのころシンガポール在住ブギス人の中にブギス語を教えたり翻訳を行う者があったそう で、シンガポール社会もブギス人を無視できない対象として接していたのではないかと思 われる。 シンガポール以外でも、ブギス人のパソンペはたいていカンプン形式になるのが多かった ようだ。面白いのは、パソンペカンプンの運営におけるしきたりが船の航海にそっくりの 形になっていたことだ。船の乗組員も乗客も船長に絶対服従という形態に従って、陸上の カンプンでも村長への絶対服従という不文律が行われていた。また航海中の船上で、乗っ ている人間同士の喧嘩は厳禁されていた。その決まりもカンプンの中で実施され、カンプ ンの妻たち同士の喧嘩も厳禁されたという話だ。 ところがそんなブギス=マカサル人の海洋精神は今や伝説と化してしまったと古い世代は 嘆いている。海に生きる男たちは漁業や伝統型造船産業にまだ残っているにせよ、人類が 構築してきたモダンと呼ばれるライフスタイルは「生きる」ということを生命の安危に関 わらない方向に導いてきた。 中でも、資本主義に支配される人類の生き様は人間を都会人に仕立て上げて海に抱かれる 暮らしから切り離してしまったのである。必然的に、何百年にもわたって海に生きてきた 世界中の種族民族が、本人たちの意志で海から離れる生き方を選択するようになった。 マカサルのパオテレ漁港を生活の中心に据えているブギス漁民のひとりは、ほぼ4百万人 いる人口の中で漁民の生き方を選択している者は34万人しかいないと語っている。 「昔、ブギス=マカサル人はその名を海の上で轟かせていた。海上通商活動をわがものに し、何千海里のかなたまで海を乗り越えることを当たり前にしていた。南スラウェシのフ ィニシ船は1986年にカナダのバンクーバーまで航海して渡洋の能力を全世界に実証し て見せている。」 [ 続く ]