「ロティ ロティ・・(5)」(2025年10月10日) 南ジャカルタ市マンパン地区にあるパン菓子製造メーカーのラッキースターは地域内の中 小企業のひとつ。1979年創業のこの会社は、1998年の暴動が起こる前は一日に2 5キロの小麦粉を消費してパンや菓子を生産していた。2006年ごろに小麦粉の国際相 場が暴騰したとき、事業主のスバンディは品質を落とすことを嫌って商品価格を値上げし た。物価上昇は卵やマーガリンをも襲っていたのだ。 もっと安い原料を混ぜて価格を維持することをかれは拒んだのである。その結果は案の定 だった。甘くないパンは一個5千から6千ルピアに、菓子パンは一個1千5百から2千ル ピアにという値上げでしかなかったというのに、かれの工場では一日の小麦粉消費量が三 割ダウンし、40人いた従業員を30人に減らすことを余儀なくされた。 このラッキースターもロティカンプンであり、かつては6百人の巡回パン売り部隊がジャ カルタの街中でパンを売り歩いた。巡回パン売りのひとりは状況をこう語った。 昔は客が家から出て来るときにお盆を持って出てきた。パンをいっぱい買うからだ。今は 家から出てこない。子供が泣いたらやっと出てきて、一個だけ買う。 マランのロティカンプン事業者ポニリンは1972年に開業した創業者の二代目だ。父親 の事業は大成功を収め、毎年50億ルピアの売上を計上した。70年代の経済レベルでは ファンタスティックな金額になる。そのころ、製粉工場があちこちの町に出現し、小麦粉 が廉価で容易に入手できるようになった。ロティカンプン事業にとっては順風満帆の時代 だったのである。その後も安定した事業が継続して1997年まで大過なくやって来られ たというのに、1998年に青天の霹靂が起こった。 それまで小麦粉は25KG袋がたったの2万5千ルピアだった。50グラムのパンが1個5 百ルピアで飛ぶように売れた。クリームを塗ってチョコスプリンクスを振りかけたパンや 緑豆アンパンはいくらたくさん作ろうが、作っただけ売れた。そんな黄金期には、勤続5 年以上のすべての従業員に二輪車のクレジットを与え、勤続10年以上の厨房係にはスズ キキャリーのクレジットを与えた。 2000年に25KG袋が6万ルピアになったとき、動揺が起こった。価格は1個5百ルピ アを続ける意志が働いたとはいえ、品質は一個当たりの小麦粉の量50グラムを続けるこ とを余儀なくされた。同業者の中に一個40グラムに減らし、他の素材もほんのわずか少 なくした者がいた。その結果かれは消費者に見放されたのだ。あわてて元に戻したものの、 もう遅い。一度離れた客は二度と戻って来なかった。利益が出なくなれば倒産しか道がな い。3百人の従業員を解雇し、残った金でかれはレストランを開いた。 2006年に状態は悪化した。さまざまな生活必需品が半端でない値上がりを起こしたの だ。交通費・人件費・電力料金・石油燃料などが高騰した。小麦粉も連鎖値上げだ。25 KG袋が9万8千ルピアになった。ところがパンは「一個50グラム・5百ルピア」を動か すことができない。製パン工場や家内工業のパン生産者が続々と倒産した。その数は百軒 くらいだと推測されている。 ジャワ島で著名なブランドのパン製造会社は1997年まで一日に小麦粉を6千袋消費し ていた。それが小麦粉価格の狂奔のために30袋までダウンしてしまった。ジャワ島の大 都市にはそのブランドの製品がまだ供給されているものの、流通領域は大幅に狭くなって いる。一日2千袋を消費していた別のメーカーはなんと6袋まで落ち込んだ。 製パン事業者の中に、高級パンにシフトするひとびとがあった。かれらは1台1.5〜2 億ルピアする製パン機を購入し、従業員を減らせるだけ減らして4人にし、製品を1個4 千ルピアで市場に送り出した。この対応策はうまく行ったように見えた。中には事業計画 を上方修正するところも出てきた。 だがオブザーバーによれば高級パン業界も外国ブランドの参入や大資本メーカーの効率改 善が事業競争を激化させるようになって、高級パンにシフトした生産者の十数軒が廃業し たそうだ。[ 続く ]