「人間を賢くはできない」(2025年10月10日) ライター: 語義格闘家、サムスディン・ブルリアン ソース: 2016年6月4日付けコンパス紙 "Siapa Bodoh?" 45年憲法序文は「民族生活を賢明にする」と述べている。腹に心地よい反意語を使って 活動家・高官・教育者の一部は「民衆を愚かさから解放する」とも表現している。その文 脈から、教育活動の実践と効果の向上が話題の核心に置かれているのが明瞭に判る。たと えば今すべての国民は、だれもが最低12年間の教育を受けているのだ。あるいは識字率 を高める活動、つまり文字や言葉を音にするだけでなく、日常生活の中で読んだものを知 識として活用する能力の向上についてもそうだろう。書かれた料理法に従って美味しいグ ドゥッを作るというのがその一例だ。 かれらの話は、学齢期の子供や青年、また時にはおとなを対象にするモダンでユニバーサ ルな教育システムや情報・技術などに関わるものだ。モダンな教育や訓練の欠如あるいは 不足は言うまでもなく愚昧のひとつである。しかし愚昧な国民と国家責任がどうして因果 関係で結ばれなければならないのだろうか? bodoh(愚か)という言葉は多面的な内容を指す主観的評価を示している。「パサルでの タワルムナワルがボドだ。」「自動車の運転がボドだ。」というように、特定の能力の中 にボドが存在している。この種のボドのあり方は人間集団の能力とまるで関係がない。ア インシュタインはグドゥッを作ることにおいてボドだと確信を持って言うことができる。 特定の知識に関してもボドが存在する。たとえばグドゥッは未熟なナンカの実を使うとい う知識だ。これも集団の能力に関わっていない。人間ひとりひとりが知識や能力に限界を 持っているからだ。すべてを知っている人間も、あらゆる能力を持つ人間もいない。それ らふたつの面に関しては、各ひとりひとりが、そしてすべての者がボドなのである。 馬鹿げたボドがある。おかしくて常識では考えられないボドさは、恋に酔っている者が頻 繁に示してくれる。かれらは他人の笑いものに自分がなっていても気にしない。天才なの にバカ面をしている者すらいる。 ボドな癖も限りない。哲学者が天の星を眺めつつ散策しながら思索にふけっている場所で、 その地面には井戸が大きな口を開けていたりする。初対面の相手と会話するのに、戸惑っ たりうろたえたりする人間もいる。それらのボドさは外面的なものだ。どの人間もボドな 振舞いをしたことがある。他人の目を躍起になって気にしている人間でさえそうだ。 あることがらの中に出現する賢明でないボドさもある。天才的なひらめきと思ったアイデ アが後になって間違いだったと判明する。行動を示したものの、結果は惨憺たるものだっ たというこもある。大決断を下したら、会社がつぶれたなんて・・・。思考や意図あるい は行動そのものがボドだったのでなく、結果が評価のまな板に載せられたあげくにそうな ったのだ。言うまでもなく、評価者は常に正しいのである。 破滅的なボドもある。大金持ちが破産するまで賭場で散財する。国際級の企業で働く、将 来を嘱望された優秀な青年がヘロインで一生をぶち壊す。怒りや悲しみを制御できない、 エモーショナルなボドさも存在している。追いつめられるとアモックを起こす。別の機会 であれば賞賛されるかもしれないのに、望まれていないことを行った人間を罵るのにボド という言葉が使われる。上司がナシウドゥッバビブンチッを買って来るように命じたとい うのに、ハラルなナシグドゥッを買って来た部下がそんな目に会うのだ。 知能レベルが低いという意味のボドがあり、通常IQ指数で計られる。あまりにも低いと イディオットと呼ばれる。学習能力が低く、ものごとを理解するのに時間がかかり、しか も困難で明解に至らない。知識や技能を学んで消化する脳の働きが浅く狭いのである。教 え方の一番上手な先生が教え込んでも、自分のものにすることがよくできない。この種の ひとびとは往々にして長所を持っている。反復作業を完ぺきに成し遂げる高い能力だ。昔、 種族間のIQの差を根拠にして表現型の異なる人間集団に対する差別や侮蔑を正当化する 研究もどきがさかんに行われた。今では、正気な人間は特定民族のボドさとIQ数値を関 連付けるようなことをだれもしない。 いずれの理解においても、インドネシア民族の平均的なボドさと他のあらゆる民族の平均 的ボドさには違いがない。インドネシアの教育システムとその成果の弱点や欠点は一般大 衆のボドさと関係がないのである。そうでなくて、何世代にもわたって教育政策を決めて 国民教育を行ってきた45年憲法の執行権保有者である国が持っている、既に血肉と化し たボドさにその因果関係が存在しているのである。