「税(3)」(2025年10月24日) 20世紀半ばごろに作られたブタウィのガンバンクロモン歌謡にチュキを取り上げたもの があり、博打のゲームとしてチュキとドミノの名称が語られ、地獄のセタンみたいになっ て銭試しをすると唄われて賭博狂いを揶揄している。 しかし20世紀の半ばを過ぎると大流行していたチェキは下降傾向に入り、1980年代 のマレーシアでは、チェキカードはマラカまで買いに行かなければ手に入らないと言われ るような状況になった。インドネシアでも似たようなもので、1970年代にインドネシ ア初心者になったわたしはこのカードゲームの存在を21世紀に入るまで全く知らなかっ た。わたしの日常生活環境の中にいるブタウィ人ジャワ人スンダ人スマトラ人たちのだれ ひとりとして、現物にしろ名称にしろ、わたしのいる場で示した者はいなかった。 わたしの若かりし時代にベチャ引きや運転手たちが家の外の空き地でやっている賭博カー ドゲームはドミノばかりだった。ある日本人のお宅に招かれて遊びに行ったとき、その家 の表門の屋根の下でベチャ引きや運転手たちがドミノ賭博を始めたからご主人夫婦が不安 を抱き、警察を呼びに下男を走らせる事件が起こったことがある。しばらくしたら軍服姿 の民兵がやってきて博徒を追い散らし、事なきを得るという結末で終わった。 わたしのジャカルタの家では、子供たちが十代に入ってからMhingという麻雀カードゲー ムを買ってきてよく遊んだ。わたしの一家は夫婦と子供二人だったから、麻雀向きの家庭 だったことも確かだ。 1970年代のジャカルタでは、宗教の影響も絡んで社会的に賭博は悪事とされていたわ けだが、その時代の刑法にどう書かれていたのかわたしはよく知らない。ところが、当時 の日本人駐在員はしばしば誰かの家に集まって麻雀大会を開いていた。そのころ流布して いた話では、インドネシアで賭博は犯罪行為であり麻雀は問答無用で賭博と決めつけられ るから警察に踏み込まれる可能性があるということになっていて、みんなビクビクもので やっていた。卓上で牌を混ぜる音が屋外に漏れるとヤバいために毛布を卓上にかけて毛布 の下で牌を混ぜるようなことをしていたように記憶している。 ところがそこまで深謀遠慮を働かせても警察に踏み込まれて罰金という名の恐喝金をむし り取られた話も少なくない。そのようなケースは、その家の使用人や隣人の中に家の主人 を憎んでいる者がいて、かれらが密告するためにそんなことになるのだという解説が常に 付いて回った。人種間軋轢はどこにでも発生するものだ。ともあれ、日本人にも賭博を好 む者がたくさんいるのは紛れもない事実だろう。 半世紀前ごろはあれほど大流行していた麻雀が日本の社会からほとんど姿を消してしまっ た歴史は、チェキのたどった運命とよく似ているように感じられる。 バリ島では2012年ごろから、半世紀前ごろ大流行していたチュキのゲームとしての面 白さを復活させようという動きが起こり、地方行政を交えてチュキのトーナメント大会が 催されるようになった。賭博という社会認識の染みついたゲームを、賭博のにおいを洗い 落として単なるゲームとして楽しもうという企画だ。わが家で行っていたミンと同じよう なものだろう。バリ人はcekiと言わずにcekianと呼んでいる。 大会にはいつも数百人の参加申し込みがあり、5〜6人で数ラウンドが競われ、勝ち抜い て最後まで残れば主催者が用意した賞金がもらえる。2012年にバリで行われたチュキ アントーナメント大会では参加者5百人が5人単位で1.5時間かけて5ラウンドのゲー ムを行い、用意された総額4千2百万ルピアの賞金が上位入賞者に分配された。 賞金目当てに不正行為を行う者が出ないように、チュキアンのシニア達人たち30人がト ーナメント会場で監視の目を光らせたそうだ。社会的に鳴かず飛ばずで半世紀を経たとは いえ、バリ島の一部の家庭には家族親睦のためのプログラムの中にチュキアンが遺されて いたことがその話から推測できる。 ヒンドゥ文化が基盤に置かれて営まれているバリ人の暮らしでは、結婚やその他の家族の 祝祭の宴で、集まりを賑わすプログラムとして何かが行われる習慣が続けられている。闘 鶏があり、歌詠みがあり、そこにチュキアンも混じっていた。そこのポイントは中華文化 と似ている気がする。中国でも、結婚式があると数日間祝宴が続けられ、集まって来た遠 近の親類縁者が泊まりこんで華やかにその数日間を楽しむ。そんな中に麻雀卓の並べられ た一部屋が用意されて、親睦を深めるために雀卓を囲むグループができる。金を賭けない ほうがおかしい文化だから、勝った負けたで一喜一憂することになる。狂い始めたら花婿 花嫁などそっちのけになったことだろう。[ 続く ]