「若者たち(1)」(2025年10月26日) 米国で作られた世代区分がインドネシアでも使われており、もちろん同じものが日本でも 使われている。デジタル化によっていかに世界が小さくなって諸民族が類似のライフスタ イルで生きるようになったかということをその現象が映し出している。 かつては各民族が自分の文化の中で体験した時代区分に従って特定範囲での世代の特徴を 分類することが行われていた。日本には団塊の世代・新人類・バブル世代といった日本独 自の政治経済面の特徴が独自の世代を作り出し、インドネシアではゲネラシプジャンガバ ルやアンカタン45などといった、インドネシア独自の世代名称が使われていたというの に、今や技術革新が生んだ先端機器が人間の行動様式に影響を及ぼし、それが全世界でほ ぼ同時進行するようになったことで、特定の世代区分が地球的な広がりを持つようになっ た。それはあたかも、国境を越えて人類がひとつに統合されつつある姿を示しているよう に見える。 昔の人々が希求した「人類はひとつ」というスローガンは、21世紀最初の四半期が経過 した今現在実現されている世界の姿と果たしてオーバーラップしているだろうか?昔のス ローガンの中にインターネットやデジタル社会の具体的なイメージは像を結んでいなかっ ただろうから、かれらの目は人間そのものを見ていたはずだと結論付けることができるよ うに思われる。 だから人類のライフスタイルが技術革新によって共通化していっても人間そのものに変化 が起こらなければ、そのスローガンが意味している「人類はひとつ」にならないのではあ るまいか。ライフスタイルの共通化が人類の本質の中に横たわっている人間的な共通性を 顕在化させることができるのだろうか?世界の人間は相も変わらず歴史と文化が人間に貼 り付けた違いを問題にし、国家という境界線を構築して他国との間に違いを作ることに余 念がない。かつて行われた国家連合の試みは失敗だったのだろうか? 世界の国々は自国民を自国の資産に位置付けて他国へ流出しないようなシステムを一層強 め、自分の国への密着度や依存度を高めているのではないかというのがわたしの抱いてい る印象だ。情報・通信・交通・物流・資本・経済・物品・知識・頭脳などが国際流通面で の動きと広がりを大きく高めているのと裏腹に、人間が自己存在の基盤をどこの国に置く かということだけに関してはますます規制が強まっているのではないかという気がわたし にはするのである。 各国政府は自国民に独自の紐を付け、外国人の背中にはその本国が付けた紐がくっついて いるのである。その紐を引きずって世界中のどこの国に入ってもいいが、いつまでもいる 場合には条件が付く。それが嫌なら自分の紐の根っこにさっさと戻りなさい。 であるならば世界がひとつになっても人類はひとつになりえないだろう。国民が歴史の中 で自分たちのために作った国家であるにも関わらず国民ひとりひとりは国家に対する主権 を持ちえず、国家の名において一部の人間が国民を支配する姿が何千年も前から同じ本質 を続けているという見方は的外れだろうか。[ 続く ]