「遊びの伝統(4)」(2025年11月04日) ジャワではそれらの子供の遊びがdolananという言葉で総称されている。インドネシアの 子供たちはドラナンをしなくなり、プレイステーションやゲームオンラインに遊びを移し 替えてしまった。身体を動かすことを嫌がるようになり、ゲーム中毒になった子供が仮病 を使って学校をサボるしまつだ。 ドラナンは年少者に人格形成のための訓練を与えるものという大切な機能を担っていた。 他人と一緒に行動して広く人間というものを知ることは社会交際に不可欠なファクターだ。 周囲にいる他人の中に自分をどのように置くかというビヘイビアがドラナンを遊ぶ中で訓 練されることになるだろう。そんな集団社会の中での規律訓練が弱まっていけば、かれら の世代が作り出す将来の社会は今と異なる価値基準に支配されることが容易に想像される。 インドネシアに1千を超える種類のドラナンがあると言われている。そのそれぞれについ て、インドネシアのオリジナルか、それとも外来のものかという議論が昔から行われてき た。しかし今ではダビングカルチャー理論がそんな議論を無意味なものにしている。どこ かの地方のローカル文化と言われているものもたいていは他の場所から来た何かが混じり こんでいるのが普通なのだ。 たとえ情報の交流がなかったと考えられている土地と時代にでさえ、異なる文化の中に類 似のものが出現することは起こり得る。8世紀ごろから始まったとされているジャワ文化 の中に興ったレオッポノロゴで演じられるjaran kepangやkuda lumpingと14世紀ごろか らヨーロッパで始まったhobby horseの類似性に因果関係を求めても、学術的に意味のあ るものは何も得られないだろう。ビー玉やこま、あるいは上に挙がっているさまざまなド ラナンについても同じことが言える。 ドラナンの構造や遊び方には社会が如実に反映されている。ドラナンは社会の持つ哲学を 映し出し、ドラナンで遊ぶよう社会に勧め、遊ぶ者たちにそれを植え付けようとしている かのようだ。社会がドラナンの中に沈潜するのである。ドラナンは文化化と社会化という ふたつの機能を同時に担っている。 ドラナンはその社会が持っている文化内に構築された価値体系を広める媒体であり、その 社会の基本原理としての信条とモラルに対してペダゴジックなモチーフを持つ活動だ。ど うしてか? なぜならドラナンというものは遊びの媒体として存在するのと同時に、原理・個性・行動 様式を有する社会を次世代に伝えるための手引きになるように社会自身の期待がそこに注 入される対象として存在しているからである。 社会的な媒体としてドラナンは社会ネットワークの形成・友情ベースの人間関係・人間同 士の親睦を推進する役割を果たすのである。だからドラナンは単に楽しむための遊戯活動 の枠を超えて、人間が精神的な合体を行う場を作り出すものなのである。 lompat karetは日本のゴム跳びとまったく同じもので、言葉まで一緒。輪ゴムで5メート ルの紐を作り、ふたりが向かい合ってそれを張り、他のプレーヤーがゴム紐を跳び越える。 ゴム紐持ち役は低い位置からだんだんと高い位置に上げていく。プレーヤーは足にひっか けてゴム紐を低い位置にしてから跳び越えればよい。 ところがそのゴム紐を回転させ、他のプレーヤーがその中に入って跳びはねる大縄跳びを するケースもある。それを同じようにロンパッカレッと呼ぶひともあれば、lompat tali という言葉を使うひともいる。ロンパッタリは普通、ひとりで行う縄跳びを指して使われ るのだが、大縄跳びにも同じ言葉が使われている。つまり二種類の遊びに二種類の言葉が 混用して使われているのである。[ 続く ]