「言葉に正誤を求める人々」(2025年11月10日) ライター: テサモコ(インドネシア語シソーラス)編纂者、エコ・エンダルモコ ソース: 2017年9月23日付けコンパス紙 "Mengendali" Pada Hari Minggu kuturut ayah ke kota Naik delman istimewa kududuk di muka Kududuk samping pak kusir yang sedang bekerja Mengendali kuda supaya baik jalannya - "Naik Delman", Pak Kasur 上に掲げたのはパッ カスル作「デルマンに乗って」の歌詞だ。ある一行の一語が異なっ ている数種類のバージョンのひとつである。少なくとも、わたしの見つけた三種類のバー ジョンが存在している。Mengendarai、Mengendalikan、Mengendaliの三つをわたしは知っ ている。わたしが記憶している歌詞はMengendali kuda supaya baik jalannnyaなのだが、 これが間違っている可能性はもちろんある。とはいえ、メロディはkudaの前に四つの音節 のスペースが設けられている。 その点に着目するなら、MengendaraiとMengendalikanの音節数は5音節であるために4音 節のMengendaliがもっともふさわしく感じられる。ただし、5音節だと成り立たないとい うわけでもない。それで唄うことだってもちろん可能なのだ。ただしそこだけテンポが変 化することになり、音節を速く発音することが求められる。前の2音節がメロディと合わ さるのに対して後ろの3音節は2拍の中で発音しなければならない。 パッ カスル、われわれの耳になじんでいるこの名前はいったいどのようにしてできあが ったのだろうか?何十年もボーイスカウト活動に献身したスルヨノさんを呼ぶカッ スル (スル兄さん)という愛称にそのままパッが積み重ねられるようになろうとは、ご本人も 思ってもみなかったのではあるまいか。 かれの作曲した子供の歌に反映されているように、かれは子供の世界を実によく知ってい たように思われる。歌詞をメロディに乗せて唄うのが容易であるばかりか、「デルマンに 乗って」の歌詞でも、複雑で深刻な言葉は一語もその中に含まれていない。この歌を唄う 子供たちが楽しさを味わうようにしようという意欲がもっぱら感じられるのだ。かれはメ ロディを重視して歌詞の語法や文法的なことはあまり気にしなかったように見える。それ よりもかれは語彙の選択に神経を使った。 最初の二行の末尾turut ke kotaとduduk di mukaのあと、三行目のKududuk samping pak kusir ....には欠落がある。インドネシア語文法ではKududuk [di] samping pak kusir.. にならなければならない。 パッ カスルはインドネシア語文法を忘れたのだろうか?小中学校のインドネシア語教師 の一部はその疑惑を強める別の例を提示するかもしれない。かれらはこう言うだろう。 mengendaliという語形式はインドネシア語においてきわめて異様な形だ。通常使われるの は接尾辞-kanを伴うmengendalikanなのだ、と。このポイントこそが、mengendaliの代わ りにmengendaraiやmengendalikanという別バージョンを作るように誰かを仕向けた元凶で はないかとわたしは強く推し量るのである。 われわれの言語生活においてmengendaliがほとんど使われない形式であることを否定する のはむつかしい。melari, membunyi, memungkin, menduduk, memuntahなどの形式が通常 は接尾辞-kanを伴っていることとそれは同様なのだ。しかし-kanを伴わない語形式の実例 もあふれるほど存在しているのである。melatih, memberi, memvonis, menari, menubuh, menyanyi, menggendong, mentransferなどのように。 パッ カスルがmengendaliを使ったことで、いまわれわれはmengendaraという語形式を常 用するようになっている。われわれはパッ カスルに感謝して当然なのではあるまいか?