「ジャヤカルタの謎(1)」(2025年11月11日)

ヒンドゥ=ブッダ宗教文化を奉じるスンダ王国の支配下にあったチルボンでスンダ大王の
王子のひとりがイスラム王国を建設し始めたのが1450年代のこと。中部ジャワではヒ
ンドゥ=ブッダを国教にするマジャパヒッ王国の直轄領だったドゥマッにイスラム王国が
興って1475年に独立し、ジャワ島のイスラム化がチルボンとドゥマッをふたつのセン
ターにして政治的な動きを強めはじめた。

ジャワ島のイスラム化は徐々に領域を広げ、中部ジャワではイスラム化した諸地方が連合
し、ヒンドゥ世界の王権を消滅させることを目的にしてマジャパヒッ王国に戦いを挑んだ。
1527年に王都が陥落してマジャパヒッはイスラム軍の前に膝を屈したのである。しか
しマジャパヒッ王国がその時に滅んだわけではない。

イスラム軍がマジャパヒッをその時に滅亡させなかったことが、ドゥマッスルタンとマジ
ャパヒッ大王の血縁関係を推測させる原因になっているのではないかという気がわたしに
はする。ドゥマッの初代スルタンはマジャパヒッ大王の側妾が産んだ息子であり、ムスリ
マの母に育てられたムスリムの王子が成人して大王に会いに来たから大王はそのころあま
り利用価値のなかったドゥマッをかれに与えたという説と、ドゥマッに住んでいた一介の
華人庶民ムスリムがドゥマッの支配者に成りあがったという説があるのだ。


マラヤ半島の支配者だったマラカスルタン国を1511年に滅ぼしてマラカの町をキリス
ト教の都市国家に変えたポルトガル人は間を置かずにマルクとの関係構築を開始し、テル
ナーテ王国に深入りして行った。しかしマラカとマルクを結ぶ航路沿いにある諸港をも視
野に収めて商機と国益の拡大を図ったのは言うまでもない。

イスラム勢力に侵蝕されて領土の縮小が起こっていたスンダ王国にとっては、反イスラム
の旗を鮮明に掲げたポルトガルからのアプローチをもろ手を広げて受け入れることに何の
躊躇もなかった。スンダ王が招かれてマラカを訪問したような話も語られている。

ポルトガルが奪ったマラカをイスラムスルタン国に戻すために、ドゥマッの王子パティウ
ヌスが1513年にジャワとスマトラの大軍勢を率いて進攻したものの失敗した。151
8年に第二代スルタンドゥマッに即位したかれは1521年に二度目のマラカ進攻を行っ
たが撃退された。


スンダ王国とポルトガルマラカは1522年に友好通商協定を結び、カラパ(別名スンダ
クラパ)港にポルトガルの商館を開くことが合意された。商館を開くということは警備の
ための軍勢が常駐することを意味している。スンダ王国側は通常レベルで行われる警備以
上のものが得られるのを期待したにちがいあるまい。

スンダ王国が必要とする物資をポルトガル側が供給し、スンダ王国はその対価としてコシ
ョウ1千袋を毎年ポルトガルに引き渡すというのが協定の内容であり、協定成立の証拠と
してポルトガルはカラパ港の川岸にパドラウン(石柱碑)を建てた。1918年に今のジ
ャカルタ旧市街のチュンケ通りと東カリブサルI通りの角地で土中から発見されたその石
柱碑の現物は現在ジャカルタの国立博物館が所蔵しており、レプリカがジャカルタ歴史博
物館に展示されている。

その協定の結果、カラパという土地に一躍脚光が当たった。スンダ王国のこの要港はボゴ
ールのパクアンにある王都とチリウン川でつながるお膝元の港であり、きわめて大きい政
治的軍事的な意義を持つ土地だった。その点において、経済面で突出していたバンテン港
とは性格の異なる港だったのである。[ 続く ]