「ジャヤカルタの謎(2)」(2025年11月12日) 1512年から1515年までポルトガルマラカで任務に就いたトメ・ピレスの著作スマ オリエンタルの中でカラパがCunda Calapaと記されていたために、その後の長い歴史の中 でスンダカラパ/スンダクラパという名称のほうが一般的になった。その綴りをポルトガ ル人が発音するとクンダカラパと聞こえるのだが、世界のひとびとはいつからスンダクラ パという音に修正したのだろうか? ポルトガル人と会談したスンダ王プラブ スラウィセサは自分の国をSangiangと呼んだら しい。しかしポルトガル人が作った文書にはその言葉がSamianと書かれていた。これはま あ、順序を逆にしてものごとを見るほうが適切だろう。ポルトガル人の文書にサミアンの 王と書かれていたのを読んだイ_ア人歴史学者が首をひねった。そんな固有名詞は聞いた ことがない。スンダ王が自分をサンギヤンの王と紹介したのではないかというアイデアが その直後にかれの脳裏に閃いた。サンギヤンという言葉をポルトガル人がサミアンと綴っ たのではないかとその学者は推定したというのが多分、このエピソードではあるまいか。 1583〜1588年の間ポルトガルの中心的植民地であるインドのゴアで働いたオラン ダ人ヤン・ハイヘン・ファン リンスホーテンの著作Itinerario(東方案内記)が159 6年に出版された。そこに盛り込まれた地理情報にはポルトガル社会で秘匿されているも のが多数含まれていた。かれが密かに手に入れた地図を参照して作ったと見られる図版や 情報の中に、イスラム化して何十年も経過し名称すらジャヤカルタに変えられたはずであ りながら、Cunda Calapaの名称が依然としてそこに記されていた。 1522年にスンダ王国とポルトガルのマラカが同盟した事実はイスラム勢の危機感を大 いに煽った。ポルトガルがスンダ王国の北海岸部に要塞を築けば、スンダ地方のイスラム 化はたいへん困難な事態に陥るだろう。ポルトガルがスンダ王国に足場を築く前にイスラ ム軍が海岸部を奪ってしまう必要が緊急方針として浮上したのである。スンダ王国が貿易 港を失ってしまえば経済的な弱体化が起こって王国の力は低下して行くだろう。この一石 二鳥の大作戦を早急に実施しなければならない。 そのための戦略として、スンダ王国最大の港バンテンをまず陥落させ、バンテンを軍事拠 点にしてカラパを奪取するという計画が立てられた。チルボンを主体にするイスラム軍が 海路西ジャワ北岸部に進出するのである。チルボンは地縁と人間関係をバンテンとの間に 持っているからだ。バンテンには既にイスラム化した地元行政勢力があり、かれらと組ん でスンダの王宮と深い関係を保っているヒンドゥ系のバンテン統治者を倒す方法が、ドゥ マッ軍による力押し一辺倒の戦争よりもはるかに上策だと考えられた。 こうして1526年、チルボンスルタンの王子であるマウラナ・ハサヌディンを総大将、 ドゥマッスルタンの妹を妻にしたパサイの王子ファタヒラを司令官にするイスラム連合軍 が海路バンテンを目指して殺到した。 バンテンを攻略したイスラム勢は、マウラナ・ハサヌディンが領主でファタヒラが軍司令 官という形態のチルボン領バンテン王宮を設け、スンダ王国を倒してその領土をイスラム 化する戦いを開始した。カラパの征服がその第一歩になる。 バンテンを攻略したイスラム勢と地元の軍勢が今度はバンテン軍と名を変え、1527年 初めに20隻の軍船に1千5百人の兵力を乗せて海路をカラパに向かった。ファタヒラが その指揮を執った。[ 続く ]