「ジャヤカルタの謎(3)」(2025年11月13日) イスラム軍によってバンテンが陥落したニュースはすぐにマラカに届いた。ポルトガル王 国のアジア副王であるアフォンソ・ダルブケルケはフランシスコ・デ サに出撃を命じた。 デ サは兵員を満載した6隻のガレオン船を率いてスンダクラパに向かった。ガレオン船 は8百トンの大型船で大砲を21〜24門装備しており、各船に百名の兵員を乗せたと見 られている。バンテン軍の船はランチャランやパガジャワというはるかに小さい軍用船だ った。しかし海戦は行われなかったようだ。 ファタヒラの軍勢はカラパ港から西に離れた海岸に上陸して布陣したらしい。そしてチル ボン軍が東に共同戦線を張って両面から攻撃したような話を書いている記事も見られるの で、そんなことが行われたのかもしれない。 ポルトガル軍とスンダ王国軍が防衛しているカラパ港にバンテン軍は西から、そしてチル ボン軍が東から接近して集中攻撃を加え、防衛軍はついに抗しきれずに逃走した。152 7年6月22日がその勝利の日だったと考えられている。 ファタヒラはその赫々たる大勝利を記念してカラパという名称をジャヤカルタに改めた。 サンスクリット語のjayaは勝利、kartaは「あまねく」や「行き渡る」を意味している。 戦争で勝利を収めた日がジャヤカルタ誕生の日とされた。ジャヤカルタというイスラム都 市国家の誕生を物語る書類や碑文が何ひとつ存在しないのだから理由はいらないだろう。 日本軍政監部が1942年12月9日に治政令第十六号でバタヴィアの地名をジャカルタ に変更した。インドネシア人にとってジャヤカルタという言葉はジャカルタと同じらしい。 確かにジャヤカルタを早口で言うとジャーカルタと聞こえる。 JPクーンがジャヤカルタを奪うまで、オランダ人はジャヤカルタという地名をジャカト ラJacatraと呼んでいたように思われる。当時の日本人の耳にそれがジャガタラと聞こえた。 後にバタヴィアという名前に変わったあとも明治になるまで日本人はその町をジャガタラ と呼び続けたようだ。 日本語AIは、日本人がジャガタラという言葉を知ったのは慶長年間(1596〜1615 年)のことだったと解説している。オランダ人の日本への初来航は1600年のリーフデ 号の漂着であり、そして日本での居住は1609年から平戸で始まった。平戸オランダ商 館が1609年から1641年まで運営されてオランダ人駐在員が居住し、日本人との接 触は後の長崎出島時代より自由に行われていた。商館駐在員の上位者が日本人女性の現地 妻を持ち、子供を作ったケースも起こっている。 VOCが組織としてジャヤカルタとの接触を開始したのは1610年であり、それ以前か らかれらがジャカトラと呼んでいたジャヤカルタがVOCの本拠地になったのは1619 年だった。1619年より前にVOC船に乗っているオランダ人たちはジャカトラとあま り縁がなく、ジャカトラ生活を体験した者も少なかったように思われるために、オランダ 人が日本人にジャカトラという地名を教えた可能性は早くても1610年以後、普通に考 えれば1619年以降ではないかという気がわたしにはするのである。 そうなると、もしも慶長年間の前半に日本人がジャガタラという言葉を知ったのであれば、 それを教えたのはポルトガル人だった可能性が浮上してくるではないか。というのも、ジ ャカトラの語源についてイ_ア語インターネットでは、ジャヤカルタという言葉をポルト ガル人がジャカトラと発音し、またそう書いたのがその発端であると解説されているのだ。 それに従えば、ジャカトラという言葉を作ったのはポルトガル人だったということになる。 オランダ人や他の西洋人もポルトガル人に倣ってジャカトラという地名を使い、それがバ タヴィア設立後もしばらく続いたという話になっている。[ 続く ]