「ジャヤカルタの謎(4)」(2025年11月14日) インドネシアからオランダ語を追放するためにバタヴィアという地名をインドネシア語に 変える必要性を抱えていたジャワ軍政監部はきっとインドネシア人に相談しただろう。そ してそのインドネシア人がジャカルタという名称を推薦したのではないかと推察されるの だが、どうしてそのときジャヤカルタという言葉が選ばれなかったのかという点にわたし は戸惑いを抱いている。内容が同一だからと言ってしまえばそれまでなのだろうが、言葉 の形態は明らかに異なっているのである。 それを綴りの写し間違いだと考えているインドネシア人もいるようだが、それはありえな い。なぜなら、軍政監部が表明した地名変更の解説の中に、日本人も昔はジャカルタとい う地名を使っていたということが書かれているのである。あれっ、日本人が昔使っていた 地名はジャガタラだったはずだが、この不正確さはいったいどうしたことなのだろうか? インドネシア人にとってジャカルタとジャヤカルタが同一であるということは、次のでき ごとからも感じられる。独立インドネシア共和国になってから、ジャカルタの創設記念日 を決める必要性が起こった。オランダ時代にはバタヴィア創設記念日が1619年5月3 0日のクーンによるジャヤカルタ滅亡の日付けにされていた。独立インドネシア共和国の 首都ジャカルタがそんな日を創設記念日として祝えるわけがない。 簡単なのは日本軍がジャカルタに名称変更した日付を使うことだろうが、インドネシア人 はそれをしなかった。インドネシア人を昔から親日だったと思っているひとびとは、そこ に表れている意味を考えてみればいい。どうして尊敬する日本人が決めてくれた日を発足 日にしようとしなかったのだろうか。インドネシア人は子供ではないのだ。 インドネシア人の希望はジャカルタの旧名であるジャヤカルタの発足日を創設記念日にす ることだった。ということは、ファタヒラの大勝利の日がいつだったのかを調べなければ ならない。 1956年にスディロジャカルタ市長が創設記念日を決める必要性を感じ、モハマッ・ヤ ミン法学士、スカント博士、シニアジャーナリストのスダルヨ・チョクロシスウォヨの三 人にファタヒラの大勝利の日付けを調べるよう依頼した。その中でスカント博士だけが答 えを持ってきたので市長はそれを市議会に諮り、6月22日に市議会の賛同を得たので1 527年6月22日がファタヒラの大勝利の日付けということに決まった。 元々それが1527年の出来事だったという説を立てたのは歴史学者フセイン・ジョヨデ ィニンラ博士であり、オランダのレイデン大学で作成した博士号取得論文の中にそれが説 かれている。ファタヒラがポルトガル軍に大攻勢をかけたのはイスラム祝祭の日であると かれは想定し、1527年のマウリッの日付けを計算して西洋暦1527年6月1日を割 り出した。 一方のスカント博士は大勝利という言葉を使った文をアルクルアンの中で探し、Innna fatahna laka fatham mubinahというものを見出した。この章句はムハンマッがクライシ ュ族の支配するメッカの町を陥落させた戦いについて述べたものだ。その戦いの西暦での 日付が6月22日だったのである。 別の解説によれば、そのアルファッの章句はジャヤカルタの発足日を提供しただけでなく、 ファタヒラが自分の呼び名をFathanと変えるインスピレーションをも与えたと述べている。 そのファタンという言葉をポルトガル人の耳と手がFalatehanに変えてしまったためにフ ァタヒラの別名がまたひとつ増やされたということを立説者は主張しているようだ。[ 続く ]