「ジャヤカルタの謎(5)」(2025年11月15日)

ところがジャカルタ在住の歴史家アドルフ・ホイケンはジャカルタ創設記念日決定プロセ
スをおとぎ話であるとコメントした。そもそもファタヒラがジャヤカルタという名称を決
めるはずがないとホイケンは言う。「ファタヒラはアラブ人であり、サンスクリット語で
地名を作ることはたいへん考えにくい。半世紀が経過したあとでも、スンダクラパという
地名は相変わらず使われていた。」

ホイケンの歴史解説はたいてい第一次資料を踏まえたものになっていて、わたし個人は信
頼性の高いものと見なしている。もしそうであるなら、カラパが陥落してイスラム軍がそ
こをイスラム領土に変えたあとも、その地名はカラパと呼ばれ続けていた可能性が感じら
れるのだ。バンテンでさえ地名変更は行われていないではないか。

その傍証としてわたしの個人体験を述べさせていただけるなら、中国人がジャカルタの古
名として[口交][口留][口八]あるいは[口加][口留][口巴]を使い続けていた印象がわたし
の脳内にうずくまっているのだ。言うまでもなく、それらの言葉はカラパの音写だ。

今でこそ、中国語インターネットは1527年の法塔西拉(ファタヒラ)の征服と査雅加
達(ジャヤカルタ)の誕生をイ_ア語ネット情報に沿って述べているとはいえ、二三十年
前の中国語インターネットは中国に蓄えられた歴史情報を高い比率で掲載していた。その
中でジャカルタの旧名として目にする情報は巴達維亜(バタヴィア)と[口交][口留]
[口八]がわたしの印象に残っており、査雅加達という言葉はわたしの記憶の中に見当たら
ないのである。

とはいえ、わたしの中国語は浅薄なレベルだから、わたしが間違っている可能性も小さく
ない。これは素人が抱いた印象と見ていただければよいと思います。ともあれ、上のよう
なポイントを並べて見るなら、ジャヤカルタという名称がもっと後になって流布した可能
性を否定するのも難しいように感じられる。


昔、パゲラン ジャヤカルタという公職名称はVOCに領土を丸ごと奪われたジャヤカル
タ三代目統治者のウィジャヤクラマに密着していた印象がわたしにはある。歴代のジャヤ
カルタ統治者であるファタヒラ〜トゥバグス・アンケをパゲランジャヤカルタと呼んでい
る文をわたしは見たことがなかった。ところが今イ_ア語ネット内の情報を調べると前任
者たちにもその称号が使われており、ウィジャヤクラマはパゲランジャヤカルタ?にされ
ているではないか。

ジャヤカルタという正式呼称が1527年に始まっていれば、もちろんその方が高い論理
性を持っている。だが万が一、ジャヤカルタという呼称がウィジャヤクラマの時代に始ま
ったのであれば、ファタヒラ〜トゥバグス アンケをパゲラン ジャヤカルタと呼ぶのは史
的事実との間の整合性に歪みを生じさせることになる。

ジャヤカルタ成立後もヨーロッパ人はカラパの名称を使い続け、その末期からジャカトラ
を使うようになったという仮説が成立しうるなら、ジャヤカルタという名称の王国は最長
でも40年未満の期間しか存在しなかったという結論を引くことができるかもしれない。


ファタヒラはジャヤカルタをバンテンの属領にし、アディパティを尊称にする領主になっ
た。西のチサダネと東のチタルムのふたつの川にはさまれたエリアと北の海上に浮かぶ島
々を合わせてジャヤカルタ領に定め、国家行政原理をヒンドゥからイスラムに変更し、住
民にイスラム信仰を勧めた。

長期にわたってジャヤカルタを治めたファタヒラは二代目のアディパティに領主の地位を
譲ってチルボンに戻り、チルボン初代スルタンのスナン グヌンジャティが没した後、1
568年に第二代スルタンの位を継いだ。そして二年後に世を去った。

1550〜1580年の間在位したとウィキペディアに記されている、ジャヤカルタの第
二代アディパティになったトゥバグス アンケはマウラナ・ハサヌディンの娘を妻にした
バンテンの貴族であり、スンダクラパ攻略戦では一軍を率いて今のアンケ川一帯に布陣し
たため、そこの地名がアンケと呼ばれるようになったと語られている。1740年の華人
の血が生んだ紅渓から2百年くらい前にアンケの地名が既に存在していたことをそれは物
語っているようだ。[ 続く ]