「ジャヤカルタの謎(6)」(2025年11月16日)

トゥバグス アンケは1580年に息子のトゥバグス スゲラサ・ジャヤウィカルタにアデ
ィパティ職を譲った。この三代目が一般にパゲラン ジャヤカルタ ウィジャヤクラマと呼
ばれている人物だ。かれの母がマウラナ・ハサヌディンの娘であるため、かれはマウラナ
・ハサヌディンの孫ということになる。一方、別の資料に母親の名はファティマ ビンテ
ィ ファタヒラと書かれていて、かれはハサヌディンの孫でなくファタヒラの孫というこ
とになる。

ジャワ島にはじめてやって来たオランダ船はコルネリス・ドゥ ハウトマン率いる4隻の
船隊で、1596年6月にバンテンに到着した。最初は歓迎されたものの、バンテン側の
顰蹙を買う振舞いが多発し、バンテンにいるポルトガル商人が現地民をけしかけたために
最後は港から追い払われる結末に至った。

バンテンを去ったハウトマン船隊はその年の11月にジャヤカルタに入港した。ハウトマ
ン船隊の記録にはその土地の名称がKonick van Jaccatraと記されており、統治者のトゥ
バグス アンケは老齢のために王子のウィジャヤクラマに位を譲ったと書かれている。


バンテンに来航するオランダ船が増加した。オランダ人にとっては商港としてのバンテン
がジャヤカルタよりもはるかに大きな魅力を備えていたからだ。バンテン側も同様だった。
ジャヤカルタは属領でしかないのだから、バンテンにとっての政治的軍事的な意味だけを
持っていればよいのである。属領が経済的に栄えると宗主は目が離せなくなり、その統治
と監視のために直轄に近い状態にしていかなければならない。バンテン王宮はそれを望ま
なかった。だが属領の領主にも野望はあったのだ。

オランダ本国の各州がそれぞれ東インド会社を興して船隊を東インドに送りスパイスを持
ち帰るようになると、州間の商戦が過熱して商品価格が大きく揺れ動いた。それがオラン
ダ連邦の経済発展に障害をもたらすマイナス要因になるのは明白だ。連邦政府は各州にで
きた東インド会社を合併させて1602年に連合東インド会社VOCを発足させ、東イン
ド原産スパイス事業の統制を確立させた。

それ以前に東インドの各地で地元支配者の許可を得て各州がバラバラに駐在員を置くよう
な態勢になっていたものは、VOCの名のもとに統合された。VOCはさっそくバンテン
に1603年、商館を設けている。バンテンスルタンからの許可は商館設立・埠頭建設・
倉庫を持つという内容になっていた。

1605年にアンボンのポルトガル要塞を陥落させたVOCはスパイス原産地を独占する
動きに出た。VOCの現地組織が設けられてVOC本社に全責任を負う総督が本部をアン
ボンに構えたのが1610年のこと。初代のピーテル・ボーツから第三代総督ラウレンス
・レアルまでの8年半、VOCの東インド本部はアンボンに置かれてマルク地方の独占支
配権を獲得する努力が続けられた。

マルク地方から最大の強敵であるイギリス東インド会社EICを追い払ってスパイスの独
占支配権を手に入れるために強硬路線を歩んだVOCを率いたのがヤン・ピーテルスゾン
・クーンという男だった。JPクーンの性格がそこに明瞭に映し出されている。かれは第
四代総督に就任して総督庁をアンボンからバンテンの属領であるジャヤカルタに移した。
もちろん、ジャヤカルタを力づくで奪ってから移したのだ。[ 続く ]