「ジャヤカルタの謎(7)」(2025年11月17日)

クーンが総督に任命される前はアンボンのVOC総督庁で社員のひとりとして勤務してい
たわけだが、クーンは軍務社員だったわけではない。VOCという会社が軍事力を擁した
とはいえ、軍務部門は会社経営幹部や商務あるいは事務部門から低く見られていた。軍務
部門の人間に会社経営のランクを登って行くことは起こり得なかったのだから。

現代に例えれば多分、会社の警備部門のような位置付けになっていたのではあるまいか。
クーンを軍人のように書いている解説はクーンにとって甚だ失礼なものになりかねない。
会計士の資格を持つ文書係社員だったクーンは精神の冷めた男であり、戦略眼に秀でたア
グレッシブな人間だった。勝利のためには迷いを心中に囲わない闘争的な人間の本性を持
っていた。ナツメグの大産地だったバンダ諸島でかれは社員時代に一度生死の境をさまよ
っている。

そのバンダ諸島を完ぺきな支配下に置くために、クーンは軍を率いて反オランダ勢力を皆
殺しにした。地元民を一掃し、他地方からVOCのために働く人間だけを連れてきて地元
民が行っていたことをさせればよいのである。昔のように大収穫されたナツメグは、アン
チオランダ人勢力の密売によって目減りすることなく、全数がVOCの手に入る。


バンテンでの交易は王宮の巧みな外国商人対応と、それとはまた別に抱えているEICと
の激しい商売競争に直面して、VOCにとってはビジネス成果の上がりにくい港になって
いた。VOCとEIC間のいがみ合いはしばしば街中で刃傷沙汰に発展し、スルタンの裁
きがVOC側に厳しい判決になったこともある。アンボンのVOC総督庁はバンテンでの
事業をテコ入れする必要性を感じていた。

ピーテル・ボーツ総督はジャック・レルミト大尉をジャヤカルタに派遣して、1.5Haの
土地を1千2百リアルで購入させた。1610年11月10〜13日に結ばれたVOCと
パゲラン ジャヤカルタ間の協定で、ジャヤカルタの町の東を流れているチリウン川の河
口東岸に倉庫と木造住居を建てること、またスリブ群島の島々で船舶修理のための材木を
取得することが許可された。1611年にチリウン川東岸の湿地帯で商館の建設がはじま
り、翌年に商館・住居・作業場が完成してナッソーハウスと名付けられた。

更に1614年には小さい要塞を設けることが許可され、ナッソーハウスと並んでモーリ
シャスハウスと呼ばれる防衛施設が作られた。その時期、JPクーンはまだアンボン総督
庁の幹部社員でしかなく、バンテン〜ジャヤカルタのVOC運営を地元で指揮する立場に
はなかった。

オランダのVOC重役会がクーンに第4代総督指名を与えたのは1617年10月のこと
で、それ以後かれは大手を振って好きな場所で好きなことが行えたと推測される。その時
期にかれが着手したのがジャヤカルタをVOCの町にすることだった。クーンが総督に就
任したのは1619年5月21日であり、ジャヤカルタが滅亡したとされている5月30
日の少し前だ。ジャヤカルタの実質的な滅亡は5月30日よりもっと前だったのではある
まいか。


1618年にクーンはジャヤカルタ側に何の断りもなく要塞の強度と規模をグレードアッ
プして威嚇姿勢を強めた。パゲラン ジャヤカルタ ウィジャヤクラマは怒った。だが兵を
差し向ければクーンの思うつぼだ。VOCの戦闘力を軽視するのは無謀すぎるのである。
ウィジャヤクラマはクーンを叱責するための使者を送っただけだった。クーンの挑発行動
は続いた。

属領で起こっているオランダ人とのいざこざをバンテン側も放置できず、バンテン王宮は
イギリス商館にウィジャヤクラマへの支援を要請した。EICはトーマス・デイルを司令
官にする部隊を1618年にジャヤカルタに送り、イギリス・ジャヤカルタ連合軍とVO
C間の戦闘が勃発した。

敗色の濃くなったVOC要塞からクーンは高速船を使ってマルクへ逃げ、マルクにいた大
戦力を伴って1619年5月にジャヤカルタに戻ってくると、凄まじい攻勢をかけた。今
度はトーマス・デイルがジャヤカルタから逃げ出す番になった。EIC軍が去ったあとの
ジャヤカルタ側は既に戦意を失い、王族貴族も兵隊も一般住民も全員が家を捨て町を捨て
て逃亡した。[ 続く ]