「ジャヤカルタの謎(8)」(2025年11月18日) そのときのVOC軍の攻撃について現場で一部始終を目撃したVOC社員のひとりがこん な記録を書き遺している。VOCの医療社員に雇用されたシュツットガルト出身のドイツ 人アルブレヒト・シュメドロップがジャヤカルタ勤務を命じられてナッソーハウスに駐在 していた。オランダのVOC重役会が既に第4代総督に指名したにもかかわらずアンボン 本部の総督執務室で勤務しようとせずにジャヤカルタで危険な綱渡りを演じているクーン の下で、シュメドロップはジャヤカルタで繰り広げられたそのドラマを目の当たりにした のである。 「ジャカトラで何が起こったか」と題するシュメドロップの記録には、ジャカトラのジャ ワ人(ジャワ島に住んでいる者はすべてジャワ人と呼ばれていた)には戦う意志がまった く見られなかったにも関わらず、司令官(JPクーン)はそんなことを少しも意に介さな かった、と書かれている。 1619年5月14日朝、戦闘部隊が要塞から町と王宮に向かって出撃した。警報が鳴ら されて大門が開かれると兵員は小舟に乗って川を渡り、はしごをかけて対岸に上陸した。 そしてたいした抵抗も受けずに町を占領した。住民たちは町が奪われたことを覚っていな かった。かれらは町の周囲にある密林に逃げ込んだ。 わが軍は空っぽになった家々を掠奪し、そのあとで火をかけたために家々は大音響を発し て焼け落ちた。火は三日間燃え続け、ジャヤカルタの町は焦土と化した。それから数日後 にわれわれは廃墟の上で新しい街づくりを開始した。まず川の東側に要塞と町を建設する のだ。このニュースが近隣一帯に広まったため、さまざまな人種の人間がやってきて住み 着いた。 パゲランジャヤカルタがVOCに許可した施設をクーンはジャヤカルタを滅ぼすために無 断で改造し、そのすべてを使ってジャヤカルタを地上から消滅させたのである。ナッソー ハウスとモーリシャスハウスだけでなく、オンルス島に設けた造船所をも要塞化してジャ ヤカルタ攻撃の基地にしたのだ。 1610年11月の協定でジャヤカルタがVOCに許可した材木の取得を根拠にして、V OCは船舶修理施設を設ける許可をパゲラン ジャヤカルタに願い出た。1613年にそ れが承認されて、ジャカルタ湾の西部に浮かぶ陸地に近い島が双方合意のもとに使われる ことになった。 広さ3.5平方キロのその島はジャヤカルタの港(現在のスンダクラパ港)から12.5 ?の距離にあるが、パンタイインダカプッの海岸からだと3KM弱しか離れていない。その 島をオランダ人はOnrust Eilandと名付けた。オランダ語のonrustは「落ち着きのないこ と、せわしいこと、不穏、騒動」などの意味を持っている。 イ_ア語ウィキペディアはその語彙を「休みなし」という意味に解釈したようだ。またそ の語源をその島に住んだオランダ人Baas Onrust Cornelis van der Walckの名前から取ら れたものと述べている。オランダ船がたくさん出入りしていたので付近の島々の住民はオ ンルス島をPulau Kapal(船島)と呼んでいたそうだ。 1615年にオンルス島に造船所が完成し、倉庫と住居も作られた。クーンはオンルス島 をオランダのコロニーにすることを考え、VOCは華人を送り込んでその島に住まわせた。 1618年になって、クーンはさらにその島に防衛陣地を設けさせて軍備を増強した。ク ーンがアンボンから大船隊を連れてジャヤカルタ攻撃に戻って来たとき、オンルス島はV OC大船隊の基地に使われた。そのようにしてパゲラン ジャヤカルタがVOCに許可し た施設をクーンは総動員し、ジャヤカルタを滅ぼすために使ったのである。[ 続く ]