「インドネシア鉄道史(45)」(2025年11月24日)

先に解説したOJSのモジョクルトベースの事業の中にモジョアグン〜~ゴロ線の運行が19
09年1月1日に始まったという記述がある。OJSはKSMが設けた~ゴロ駅にモジョクルト
へ行くための路線を差し向けたにちがいあるまい。
こう図解すると話が見えやすくなるかもしれない。

[SS]
 - Kediri - Papar - Kertosono - Jombang - Mojokerto -
[KSM] 
Kediri - Pare - Pulorejo - Jombang (1897)
Kediri - Wates (1897)
Papar - Pare (1897) 
Pare - Kepung (1998)
Pulorejo - Ngoro - Kandangan (1898)
Pare - Kencong - Kandangan (1899)
[OJS]
 Mojokerto - Mojoagung - Ngoro (1909)

KSMは216両の貨車を保有して122.9KMの路線網を駆け巡らせた。かなりの台数と
言えるだろう。1932年には74本の列車が日々その路線を走っていた。列車に休日は
ない。2万7千10人の鉄道職員が交代でその業績を実現させていたのである。そしてそ
の大車輪の働きによって会社は大きい利益を獲得していた。オランダにとって東インドの
黄金時代がそれだったと言えるにちがいあるまい。


上に挙がっている製糖工場の中に、1930年代の世界不況で清算を行った会社があり、
また日本軍によって閉鎖を命じられた工場もあった。日本軍はこの地域で大量に線路撤去
を行ったようだ。インドネシア独立後また運行が再開された鉄道路線にしても、運送する
物産の量が採算に乗らなくなったあとの運命がどうなるかは明らかだった。地域の経済性
がダウンしたまま復活の機を失ったパレ一円の産業は、KSMの敷いた鉄道路線のサバイバ
ルを不可能にしたのである。

ジョンバン〜パレ線が1976年に廃止され、パレ〜クディリ区間も1978年に列車運
行がなされなくなった。KSMの事業の屋台骨を担っていたジョンバン〜パレ〜クディリ線
に接続していたすべての支線が一蓮托生したのは言うまでもない。

パンリマブサルスディルマン通りにあるKSMのパレ駅舎を2016年に訪れたコンパス紙
記者は、線路のないその一帯を探してみたものの駅舎を見つけることができず、地元民に
尋ねながら捜索の輪を縮めて行った。地元民すら違う場所を指差すくらいだから、国鉄関
係者を連れて来るべきだったと後悔したものの後の祭り。だが記者はついに駅舎を探し当
てたのである。サテカンビン アヤム グレ スタシウン パレと書かれた垂れ幕がかかって
いるワルンがその駅舎だった。サテやグレを探していれば見つけたかもしれないが、スタ
シウンを探している者の目にその文字はおいそれと入って来ないだろう。

駅舎の内装は変わっておらず、切符売場窓口も昔のままに残っていた。スギオノさんとウ
ィディさんの夫婦がやっているその店はけっこう繁盛している。店内のガラスに貼られて
いる写真が記者の興味を引いた。スギオノとウィディのふたりと一緒に、ふたりのオラン
ダ人が写っている。ウィディがそれを解説した。
「そのふたりはね、オランダ時代にここに住んでいた鉄道職員の孫だそうですよ。数カ月
前にここに来たんです。祖父の人生について知りたくて、跡をたどってみる気になったと
言ってました。」

記者はそんな話を聞きながら、体を温めるために熱いグレを腹に流し込んだ。高地パレに
はそのとき、雨が降っていた。[ 続く ]