「インドネシア鉄道史(47)」(2025年11月26日) ジョンバンからまっすぐ北に50KMほど離れているラモガン県ババッの町へ、1896年 に設立されたババッ-ジョンバン蒸気鉄道会社Babat?Djombang Stoomtram Maatschappij (略称BDSM)が鉄道線路を敷いた。このルートにはDjombang, Ponen, Ngelomなどの製糖工 場があって、農園からサトウキビを工場に運び、工場から砂糖を運び出すのが鉄道事業の 中心を占めていた。そのほかには木材が重要な輸送貨物だった。ババッとジョンバンに住 む商人たちが鉄道で商品を運んだり送ったりすることもよく行われていた。 BDSMがジョンバンからババッに向けて鉄道を引いたのは、NISがグンディ〜スラバヤ線を 建設中だったからのようだ。SSのジョンバン駅とNISのババッ駅をBDSMがつなぐというコ ンセプトがそのコンセッションの中身だったのだろう。この路線は1981年にインドネ シア国鉄が閉鎖した。 ジョンバンに本社を置いたBDSMはジョンバンからババッに向けて工事を開始し、段階的に 列車を走らせていった。路線区間は次のようになっていた。 ジョンバンコタ〜ドロッ 8.5KM 1899年8月16日開通 ドロッ〜プロソ 1.1KM 1899年12月24日開通 プロソ〜カブ 6.3KM 1900年1月1日開通 カブ〜~ギンバン 16.3KM 1900年5月17日開通 ~ギンバン〜ブルルッ 10.3KM 1901年6月18日開通 ブルルッ〜ドゥラダ 9.3KM 1902年1月1日開通 ドゥラダ〜ババッ 16.5KM 1902年8月17日開通 ~ギンバン地区には泥炭地が広がっていたために、レールベッドの盛り土をしてもすぐに 土中に沈んでしまうという困難が工事の進捗を阻んだ。その対策として大量の砂を注ぎこ むことが行われ、延べで無蓋貨車416両分の砂、総量1.5万トンが現場に運ばれた。 この会社は負債が膨れ上がったためにSSが1916年に買収して鉄道路線を自社資産にし た。その後SSはプロソ〜クリアン間に支線を設けて、PlosoとNgelomの製糖工場にサトウ キビを運ぶ貨車の運行を行った。ジョンバンコタ駅とSSジョンバン駅を結ぶ線路はKSMが 建設したという話になっている。 ババッと言えば、Wingko Babatという名の焼き菓子に付けられて全国的に高い知名度を誇 っている地名だ。ウィンコという菓子は決してババッの特産品でなく、ジャワの北部で一 般的に作られ食べられている菓子であり、ババッの出身者が商業ベースに乗せたウィンコ にその地名を付けたというのがウィンコババッという名前の由来だそうだ。 面白いことに、ウィンコババッはババッの土産物としてでなく、スマランの土産物として 有名になっている。NISが設けたグンディ〜スラバヤ鉄道路線の大きい貢献がその陰にあ ったというストーリーが物語られている。 時は1944年の日本軍政期、ババッの華人プラナカン住民ルー・ランホアが夫のテー・ エッチョンと子供二人の一家をあげてスマランに移住した。移住する際にはNISが設けた スラバヤ〜スマラン線の列車に乗ったことだろう。もちろんその時はもう、NISはジャワ 島から姿を消していて鉄道運行などしておらず、日本軍ジャワ軍政監部陸輸総局がインド ネシア人に現場での列車運行をさせていた。 戦争中の苦しい経済生活を少しでも向上させようと、ランホアは親から作り方を学んだウ ィンコを作ってスマランタワン駅で販売した。タワン駅を通る鉄道乗客たちの間でランホ アのウィンコが好評を博した結果、商品性を持たせるために故郷の名前を付けてウィンコ ババッという商品名にし、包装紙に列車の絵をロゴとして描いた。 ランホアによれば、父親がババッでウィンコの製造販売を家内工業で行っていたのがウィ ンコババッの由緒であるために、ウィンコババッの本家はババッにあるのだそうだ。ババ ッで始まったウィンコ商売が鉄道のおかげでスマランでの開花と発展に至った。こうして ウィンコババッはスマラン名物としての定評を獲得し、反対に故郷のババッではあまり鳴 かず飛ばずというありさまになっている。[ 続く ]