「インドネシア鉄道史(48)」(2025年11月27日)

2016年にコンパス紙がインタビューしたジョンバンに住む78歳の女性は、昔ジョン
バン〜ババッ線をよく利用してプロソ、ギンバン、ブルルッ、ババッ、果てはトゥバンま
で遊びに行ったと物語った。切符はとても廉かったし、時には切符を買わないで乗ったこ
ともある。プロソへ行ってサラッやドゥリアンを買い、家に持ち帰ったそうだ。

BDSMのジョンバンコタ駅は1981年に閉鎖され、その後駅舎は住民が売店にして使って
いる。上で老女が語った、トゥバンまで鉄道で行ったという話はババッからトゥバンへの
路線をSJSが建設してあったからだ。


SJSは1920年にババッと北のトゥバンを経由してムラクラッまで達する路線を開いた。
1920年8月1日がそのオープニングだった。ババッ〜トゥバン間は元々NISが支線を
設ける予定にしていたもののその工事は着手されず、SJSがそれを受けてババッ〜トゥバ
ン〜ムラクラッ線を設けた。

SJSはトゥバンのすぐ西にあるムラクラッからジュヌを経てジャティロゴまでつなぎ、自
社所有のボジョヌゴロ〜ジャティロゴ線に接続させる予定にしていたらしい。しかしその
予定は実現しなかった。トゥバン〜ムラクラッ間の運行が1935年に停止したのは、そ
の区間がボジョヌゴロ〜ジャティロゴ線に接続させるために設けられたからだった可能性
が感じられる。もしそれが当たっているなら、予定が破産すればトゥバン〜ムラクラッ区
間に与えられた意味もなくなったからという因果関係が成立するだろう。

トゥバン〜ババッ線のトゥバン〜プルンパン区間で1942年に日本軍が線路を撤去した
ため、ババッから北へは12KM離れたプルンパンが終点になった。しかしインドネシア独
立後、トゥバン〜プルンパン間に線路が敷きなおされて列車運行が再開されている。この
路線が閉鎖されたのは1990年だった。

BDSMは鉄道事業の経営がおもわしくなくなったために、NISに25万フルデンで資産の一
部を貸し出す契約を1903年に結んでいる。NISはBDSMに買収の話を持ち掛けたが、金
額が折り合わなかったようだ。結局1916年にSSが2百万フルデンという信じられない
ような金額でBDSMを買収した。その路線運行でSSが買収金額の元を取り戻すのは不可能だ
っただろう。しかし少なくともその沿線社会の経済に混乱が起きることは防がれたのでは
あるまいか。[ 続く ]