「インドネシア鉄道史(51)」(2025年11月30日) ジャワ島では隅から隅までと言うと大げさだが、全島6州のすべてに渡って鉄道線路が敷 かれ、一衣帯水のマドゥラ島でさえも蒸気機関車が線路の上を走る時代を体験した。しか しジャワ島よりも広いスマトラ島での鉄道建設は選択的に行われ、アチェ・北スマトラ・ 西スマトラ・南スマトラ・ランプンでオランダが、そして日本軍政期に日本がリアウで行 い、全島10州の中で鉄道が設けられたことのある州はその6つだけだった。 とは言うものの、東インド政庁は既にイギリスの池になっていたマラカ海峡を通らずに貨 物をブラワン港に集めて積み出す方針を立ててスマトラの全島を鉄道で結ぶ構想を企てた のである。1910年に地図上に描かれた路線図を見ると、実現しなかった幹線路はブキ ッバリサンの東側を縦断する形になっている。 スマトラ島の鉄道線路網建設はジャワ島に遅れること9年、1876年にアチェに敷かれ たのが事始めになる。特異なことに、アチェ戦争の最中にあったオランダ王国東インド植 民地軍KNILがウレーレウェの港から5キロ離れた王都のクタラジャまで1067ミリゲー ジの鉄道線路を敷いたのがスマトラ島鉄道史の幕開けだった。ところが1884年にウレ ーレウェ港〜クタラジャ間の線路は750ミリゲージに変更されて、その後アチェで設け られる鉄道路線はすべてそのゲージ幅に統一された。 アチェの鉄道路線は西北端にあるバンダアチェの港ウレーレウェから北スマトラ州東岸の 最北の港パンカランススまで495キロの大動脈として建設されたものだったが、軍事用 途から離れるにつれて乗客と貨物輸送の機能が強まり、1920年には乗客4百万人、貨 物15.3万トンが鉄道で運ばれた。貨物は農園物産・都市間の流通商品・国外から運ば れてくる建設資材などがメインを占めていた。 アチェに続いて北スマトラのデリ地方で農園物産を輸出するための鉄道が建設されて、1 886年7月25日にメダン〜ラブハン間16.7キロの線路上を列車が走った。この鉄 道建設と列車運行はデリ最初の農園会社であるデリ株式会社N.V. Deli Maatschappijが中 心になって多数の農園主たちの合議の下に設立されたDeli Spoorweg Maatschappijデリ鉄 道会社が行った。 デリ鉄道会社はオランダ東インドで四番目に古い鉄道会社であり、民営鉄道の中では三番 目に古い。運行総延長距離440KMという数字は民営鉄道の中でナンバーワンのようだ。も ちろん国有鉄道会社SSの運行距離は桁違いの数字になっていて、民営鉄道の中でそれにか なう者はいない。 デリ鉄道会社はメダンを中心にするデリ地方ばかりか、北はアチェ州との州境にあるブシ タン経由で北スマトラ最北のパンカランスス港まで、南はクアラルンプルの対岸に位置す るトゥルッニブン、そしてリアウ州との州境に近いランタウプラパッまでを鉄路でつない だ。州東岸部の海岸線545KMのほぼ三分の二が鉄道でカバーされたと言ってかまわない だろう。 西スマトラではブキッバリサンの山中にあるオンビリン炭鉱に埋もれている高カロリー石 炭をインド洋岸の港に輸送するための交通機関として鉄道に脚光が当たった。1889年 から建設工事が開始されて、第一フェーズのプラウアイェ港からパダンを経由してパダン パンジャンに至る75KMの路線で1891年7月1日に運行が始まった。 そこからソロッを経由してオンビリン炭鉱のあるサワルントの麓のムアロカラバンに鉄路 が達したのは翌1892年のこと。ところが新設されたエンマハーフェンの港にオンビリ ン炭鉱の石炭が鉄道で届いたのは1894年のできとだったのである。4年半という歳月 がその目的達成のために費やされた。 西スマトラの鉄道路線網は北内陸部のブキッティンギ〜パヤクンブへ、また北海岸部のパ リアマンへと延ばされ、それらの地方で産出する農林産物や鉱産物の輸送、また乗客の移 動の便を向上させた結果、鉄道運行事業のおかげで西スマトラの経済は急速な発展を示す ようになった。[ 続く ]