「インドネシア鉄道史(52)」(2025年12月01日)

スマトラ島南部に位置するランプン・南スマトラ・ブンクル三州の物産を港に輸送するの
を目的にして東インド政庁はスマトラ島南部地方での鉄道建設を計画し、ランプンのパン
ジャン港とバンダルランプンの町中にあるタンジュンカラン地区を結ぶ12KM区間に鉄道
線路が敷かれて1914年8月3日から列車の運行が開始された。

またパレンバン市内のクルタジャティから南スマトラの内陸部に向かう鉄路が建設されて、
1915年11月1日からクルタジャティ〜プラブムリの78キロ区間を列車が走るよう
になった。この路線はもっと内陸部のムアラエニムで産する石炭を求めて延長され、19
17年にムアラエニムの石炭がパレンバン港に鉄道で運ばれるようになった。

しかし鉄路はそこにとどまらず、もっと西へ延長されてラハッ経由で終着のルブッリンガ
ウまで到達したのが1933年のことだった。

ランプン州ではバンダルランプンに達していた鉄道線路が1921年に北西のコタブミに
延ばされ、一方の南スマトラ州ではプラブムリからランプンに向かう工事が開始されてバ
トゥラジャまでの区間が1923年7月1日に開通し、州境に近い南スマトラ州のマルタ
プラで双方向から作られてきた線路が1927年にランデブーを果たした。


それらのオランダ植民地時代の鉄道建設の歴史が終焉したあと、日本軍が死の鉄路と呼ば
れている鉄道建設をリアウ州で行った。

マレー半島を制圧してから1942年2月15日にシンガポールを陥落させた日本陸軍は、
シンガポールでの戦闘が継続中だった2月14日にパレンバンに進攻してその翌日に石油
製油所を占領した。これはマレー半島から飛び立った陸軍パラシュート降下部隊の奇襲方
式で行われ、それが成功したために「空の神兵」という謳い文句を添えられて戦史の中で
大きくもてはやされた。実際には海軍の空挺部隊が北スラウェシのマナド攻略戦に際して
1942年1月11日に同じ方式を先に使用して成功しており、陸軍にとっては史上最初
であっても皇国軍にとっては最初にならない。

そのあと、日本海軍がムシ河沿いに平定作戦を行ってパレンバンから上流のラハッ一帯ま
でを占領した。スマトラ島攻略戦はそこまでだったようだ。日本陸軍は本命のジャワ島攻
略作戦を行って3月1日にジャワ島に上陸し、3月8日夕方から降伏交渉が始まって9日
にオランダ領東インドの無条件降伏が表明された。東南アジアの各地から後退して来た連
合軍にとっては不本意なオランダ東インド総督の振舞いだったそうだ。なにしろ東インド
領内にいる連合軍をひっくるめての降伏にしたのだから。もちろん領土主権を持っている
者にはその権利がある。

オランダ東インドの降伏表明が終わってからスマトラ島の各地に日本軍がやってきたよう
だ。ところがKNILスマトラ島防衛軍は降伏せずに内陸部に後退して抵抗線を張った。
アチェ州南部山岳地帯のクチャタネでスマトラ防衛軍司令官オフェラッカー少将が日本軍
に降伏したのは1942年3月28日だった。

日本軍は西スマトラのオンビリン炭鉱の石炭をシンガポールの南部海域に輸送する必要性
に迫られていた。リンガ・シンケップ諸島の海域が太平洋戦争中の日本海軍最大の泊地に
なったのだから、燃料補給は絶対問題になる。おまけにインド洋作戦に失敗したため、イ
ンド洋側の港を利用することができない。こうしてオランダ人がしなかったことを日本人
がすることになった。リアウ州プカンバルと西スマトラ州ムアロを結ぶ鉄道線路敷設工事
が1943年9月に着工されたのである。

この路線の詳細は拙著「スマトラ死の鉄路」をご参照ください。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-25Sawaluntoh_BayahRail.pdf


スラウェシ島でも1923年にマカッサル〜タカラル間に47KMの鉄道線路が敷かれて列
車が走った。開通式は1923年7月1日に盛大に挙行されたものの、採算性は期待外れ
だったようで、1930年代の世界不況に襲われるとひとたまりもなくダウンし、運行が
1930年8月1日に廃止された。[ 続く ]