「インドネシア鉄道史(53)」(2025年12月02日)

オランダ人がアチェで行った鉄道建設はアチェ戦争が産み落としたものだった。アチェス
ルタン国の直轄領を奪取したKNILは地方部で発生する反オランダ武装蜂起を鎮圧する
ために軍事作戦を長期にわたって継続した。そのために兵器と軍勢がアチェに送り込まれ、
クタラジャの港であるウレーレウェで揚陸された兵器兵員をクタラジャに送るための鉄道
が建設されたのである。

クタラジャは今、バンダアチェという名前に変わっている。1876年に建てられたクタ
ラジャ駅舎はバイトゥラッマンモスクの表向かいにあって1974年まで使われていた。
2004年の大津波災害で駅舎は姿を消し、その跡地にはドイツ製蒸気機関車BB84が記念
碑として置かれている。


1873年3月にオランダ東インド政庁はアチェスルタン国征服を目的にしてアチェに出
兵し、クタラジャの王宮を奪取しようとしたが失敗した。その年11月に第二次侵攻が行
われたものの、王都でコレラが大流行したために双方に病死者が続出し、その結果アチェ
スルタンは1874年1月に王都と王宮を放棄して座所を外に移した。王都を占領したオ
ランダ東インド政庁は王都を奪取したことを根拠にしてアチェスルタン国直轄領をオラン
ダ王国領と宣言し、アチェ人に帰順をを命じた。

王宮を出たスルタンはほどなくコレラで世を去った。しかしアチェ人支配層は王統を継ぐ
当時まだ10歳のアラウディン・ムハンマッ・ダウッ・シャをその後継者として即位させ、
反オランダ抵抗戦を継続した。オランダ側の名目は自国領内の謀反分子掃討戦ということ
になる一方、アチェ側にとっては侵略軍から王国領全域を死守する聖戦という様相を呈す
るようになる。この戦争は数十年間という長期戦の泥沼にもつれこんで行った。

1903年にアチェ最後のスルタンがオランダ側に降伏したあともアチェ王国の地方領主
であるウレバランの対オランダ抵抗戦は継続し、夫のテウク ウマルを対オランダ戦争で
失ったチュッ ニャッ ディンが1909年まで戦争を指揮した。

大規模戦闘が姿を消したあともアンチオランダ意識はアチェの山河に染みつき、ウラマの
指揮する武力闘争が各地にいつまでも残った。1942年に日本軍がマラヤ半島への進攻
を開始する前、日本軍特務機関員がアチェに対する宣撫工作を行った際に日本軍を歓迎す
る一派が協力した話が語られている。反オランダ意識の強さが幸いしたという論評だ。し
かしアチェ人がすべて日本軍を歓迎したわけでもなく、ウラマ層は概して反オランダ反日
本の立場に立っていたと言われている。


1874年にアチェの王都に攻め込んだKNILは大型兵器の輸送に苦労した。ウレーレ
ウェ港の周辺部は湿地帯にとり巻かれており、船から降ろされた重量物が移動の途中で泥
の中に沈んでしまうことがしばしば起こっていたのだ。港から王都クタラジャまでの4キ
ロ区間に鉄道を通して重量物や兵員あるいは軍馬の輸送の便をはかるべきだという提言に
もとづいて東インド政庁は線路敷設工事の準備を始めた。それは戦争のために戦争の真っ
ただ中で行われる鉄道建設工事と列車運行なのだから、KNILが一切を統括するのが当
たり前のプロジェクトだったのである。

在シンガポールのオランダ総領事に指令が飛び、アチェの鉄道建設に必要な全資材と使わ
れる鉄道機材がイギリスに発注され、そして1875年5月に全注文品がアチェに届いた。
枕木はマラカで作られたらしい。機関車もイギリス製が2台届いた。オランダ側はもう1
台をドイツに注文した。

労働力不足のために建設工事は1876年9月までかかり、やっと軍用列車が動き始めた。
アチェ王国直轄領の治安をKNILが確保するまでに5〜6年かかったようだ。1882
年1月1日からオランダはアチェブサールの統治行政を軍政から民政に切り替えた。KN
ILが保有し管理している鉄道も民政に移管されなければならない。そのために戦争省か
ら公共土木事業省BOWへの移管がなされ、運営会社Atjeh Tramが設立されて鉄道運行事業
を行うことになった。[ 続く ]