「インドネシア鉄道史(54)」(2025年12月03日) とは言うものの、その後も実質的には軍の主導の下で鉄道が動かされていたようで、最終 的に鉄道運行管理がアチェトラムに移管されたのは1884年だった。その時点で戦争が 終わり、平和が来て一般民衆が安全な鉄道の旅を楽しむようになったという想像はあの時 代の戦争というものを知らない、まるで的外れの空想だろう。 その後もKNILは鉄道沿線にある諸地方の治安を維持するために鉄道を最大限に活用し 続けた。面白いのは、KNILのパトロール隊が線路の上を自転車を漕いで走る方式が考 案されたことだ。自転車は四輪車になっていて鉄道線路の上を走るように作られ、4人が 一台の自転車に乗ってペダルを漕いで走るのである。クタラジャやピディで1903年ご ろから盛んに使われはじめ、自転車ブリゲードという名前で呼ばれた。鉄道自転車は19 35年ごろでも依然として使われていた。 1908年にシグリの近くで撮影された鉄道自転車パトロール隊の写真は先頭にあるベチ ャの座席のような車に指揮官と副官が座り、その後ろに5両の鉄道自転車に乗った20人 の兵員が全員抜剣して自転車に乗っている姿を示している。 アチェトラムは1916年にSSの経営下に入ってAtjeh Staatsspoorwegen (ASS)という社 名に変わった。ASSはアチェ東岸部を南下して線路を延長し、最終的に北スマトラとの州 境を越えてブシタンに入り、更に1917年に東方の港町パンカランススに達している。 その数年後に、メダンに本拠を置くデリ鉄道会社が北方に路線を延ばしてブシタンからパ ンカランススまでつなげたので、1921年にアチェと北スマトラの鉄道がつながった。 ただし線路のゲージが違っているために相互乗り入れはできず、ブシタン〜パンカランス ス区間に三本レール方式が使われた。先に作られた750ミリゲージの線路の一方から1 067ミリ離してレールをもう一本だけ並べ、狭い方をASSの列車が走り、広い方をデリ 鉄道会社の列車が通るという方式だ。1929年にSSはヨグヤカルタのトゥグ駅とスラカ ルタのジュブルス駅をつなぐためにその方式を使ってバタヴィア〜スラバヤ間の一貫走行 を可能にし、Eendaagsche Express(One-day Express)を実現させている。アチェでASSの 線路総延長は511KMに達し、1939年には一日当たり乗客数が9千人に上っていた。 アチェトラムはクタラジャを中心にする首都周辺部に設けられたKNIL防衛基地を結ん で次のような順序で鉄道網を築いていった。 1884年 Koeta Radjaから南西部のKetapang Doea Koeta Radjaから南東部のLam Baroe 1885年 Koeta Radjaから北東部のLam Joeng Ketapan Doeaから北西部のLam Djamee Ketapan DoeaからLam Baroeの手前にあるLam Reng Lam BaroeからLam Reng (この路線は1889年に閉鎖されたが1891年に再開) 1886年 Lam Baroeから北のLam Joeng 1890年 クタラジャ〜ランバル線の中ほどにあるLam TehoeからLam Reng このアチェ鉄道網の項はオランダの記録からインドネシア語訳されたものを元記事にして おり、地名はオランダ時代のものが記され、またオランダ時代の綴り表記になっている。 たとえばAtjehは現代イ_ア語綴りでAcehとなる。Lam Baroeランバルは現在Lambaroラン バロという地名になっている。[ 続く ]