「ランファンコンス(3)」(2025年12月03日) ところが1770年になって華人たちはサンバスのスルタンに反旗を翻した。かれらはス ルタンへの貢納を半分に減らすと言い出したのである。黄金の採掘量はますます増加して いたというのに。 おまけにスルタンは金鉱の治安と華人組織の監視を近隣のダヤッ人部落に行わせていたた めに華人がかれらを攻撃して部族長を殺害する事件まで起こったのだから、ただでは済ま ない。増上慢な華人に対して激怒したスルタンは華人コンスを撃滅せよと命じて軍隊を出 動させた。サンバス軍が発進してから8日目、まだサンバス軍と華人との大規模合戦は発 生していなかったにもかかわらず、謀反を起こした華人たちが手のひらを反すようにスル タンに対して謝罪と赦しを求めてきた。貢納を昔の決まり通り行い、スルタンに忠誠を誓 うので赦してほしいと。 その態度の豹変についてはこんな解説も語られている。元々華人コンスがポンティアナッ のスルタンにそそのかされてサンバススルタンに弓を引いたのが謀反の原因であり、サン バスで起こったその動乱を鎮めるためにVOCが華人コンスの平定にポンティアナッも協 力するよう命じたためにポンティアナック軍も華人コンス討伐戦に加わった。それを見た 華人側が態度を一変させた、というのがその説だ。 コンスの間でも華人社会における権力を競う争いが頻繁に起こっていた。金鉱に対する支 配権に関わる問題だから、ただの見栄でなくて欲得がからんでいる。1770年ごろのサ ンバススルタン国領内にある10のコンスのうちの勢力の強いタイコンコンスとランファ ンコンスがモントラドゥッを争奪する闘いを起こし、1774年にランファンコンスは敗 れて、組織が分解してしまった。 広東省嘉応州石扇堡に生まれた羅芳伯 (1738-1795)は故郷の町で教師をしていたが、34 歳のときに放浪の旅に出た。韓江を下ってシャンタオに至り、そこからベトナムに渡って 海岸伝いに南下し、海を越えてゴールドラッシュ真っ盛りの西カリマンタンの海岸に上陸 したのが1774年のこと。そのときかれは36歳になっていた。その翌年の1775年 に羅芳伯がランファンコンスを再生させた。 羅芳伯は華僑同士が勢力争いを行って相互に潰し合うことの愚行を嫌い、1776年にサ ンバス領内の12コンスとムンパワの2コンスを糾合してヒースンと呼ばれる合同団体を 組織した。それまでコンス間の抗争がいかに激しかったかということをそれが物語ってい るようにも思われる。総数14にのぼるそれらのコンスは相互間の不和と闘争を避け、ま た外部からの圧力に対抗するために連合する態勢を組んだのである。しかし理想と現実の 間に横たわる溝がそう簡単に埋まれば、何も言うことはなくなるのだ。 ヒースンの中に統一されたとはいえ、サンバス領内のコンスはサンバスのスルタンに、ム ンパワ領内のコンスはパヌンバハンに忠誠を誓った。それぞれの領主は金鉱事業を行って いる華人コンスに自治権を与え、リーダーの選出や組織運営ならびに居住地区の秩序管理 を華人が行うことを承認した。 蘭芳公司を再興した羅芳伯は1777年にその本部をサンバス領内からムンパワ領内のマ ンドルに移転させた。そしてムンパワ領内に住んでいる客家人の統合に着手したのである。 サンバス領内の華人はすべて客家人だったが、ムンパワの華人は客家人と潮州人が混在し ていた。 1778年にランダッ河の河口にあるポンティアナッ村で異変が起こった。村長だったシ ャリフ・アブドゥラッマン・アル カドゥリがランダッ王国からの独立を宣言したのだ。 その村長は1771年に内陸部からそこへ民衆を率いて移住したリーダーであり、村長が 一躍そこにスルタン国を樹立させたのである。 その地域を領土にしているランダッ王がそれを放置するわけがない。一触即発の危機が訪 れたが、西カリマンタン地方への進入のチャンスとその状況を見たVOCが新生ポンティ アナッスルタン国の肩を持った。ランダッ王は領土を回復するのを諦めた。[ 続く ]