「ランファンコンス(4)」(2025年12月04日)

蘭芳公司はランダッ河口を利用していたため、ポンティアナッスルタンとの関りを築かね
ばならない事態に陥った。羅芳伯はムンパワのパヌンバハンの庇護下にある状態を維持し
ながら、ポンティアナッとの関係作りにのめりこんで行った。そしてあげくの果てに、V
OCの後ろ盾を持っているポンティアナッが起こしたムンパワへの領土拡張戦の中に巻き
込まれることになった。

ポンティアナッ軍が1789年にムンパワへ侵攻したとき、ポンティアナッスルタンは羅
芳伯に華人部隊を参加させるよう求め、羅芳伯はそれに応じた。ムンパワ側がその戦いに
敗れたため、領主は奥地へ逃げてムンパワを明け渡した。それ以来、蘭芳公司はポンティ
アナッスルタンの庇護を受ける形に変化した。

ポンティアナッスルタンと羅芳伯の関係は親密さを増し、蘭芳公司が領地を持つ形へと進
展して行った。現代用語で言うなら行政区ということになるのかもしれない。蘭芳公司が
その地区の統治行政を委ねられたのだ。それは多分、ポンティアナッスルタン国内にでき
た自治領と呼ぶのが適切だろう。決して国の中に別の国が誕生したということではない。
それが実現したのは1793年のことで、羅芳伯は55歳になっていた。

この自治領への体制変化に伴って首長選挙が行われ、羅芳伯の続投という結果が出た。そ
の首長職には大唐総長という呼称が与えられた。自治領の規定の中で、首長と副首長は客
家語を話す人間でなければならないと謳われている。


蘭芳公司はポンティアナッとサンバスのふたつのスルタン国に毎月貢納を行うことが義務
付けられていただけで、領内の住民統治は完全な自治が任されていた。蘭芳公司自身も清
王朝からの認定を望み、定期的に使節を送って貢納していた。

この自治領の中では、行政部門の高位者は中国の伝統衣装を着用し、一般住民は西洋式の
服装をしていた。羅芳伯大唐総長の舵取りの下で蘭芳公司は19年間、経済発展と治安安
定を目指して活動した。領内では客家語が第一言語にされ、次いでマンダリン、ダヤッ語、
そしてムラユ語も使われていた。

本項の内容はイ_ア語インターネットにある解説や情報を基本に置いて日本語にしている
が、中国語ウィキペディアの解説は羅芳伯が1777年に蘭芳公司という国家を建国した
という言い方になっているように見える。地球上には関係者の数だけ真実が複数で存在す
るのである。

清王朝時代に作られた海国図志という書物に、梅県嘉応出身者がボルネオで鉱山開発を行
い、道路を作り、自分たちの国を建国した場所があり、かれらの船は毎年潮州を訪れて交
易しているという記述がある。実際には、かれらは毎年清王朝への貢納を第一目的に据え
て渡航していたのである。


羅芳伯は1795年に世を去った。蘭芳公司の47年、第5代総長の劉台二の時代にオラ
ンダのジャワ島外への伸張が強まってカリマンタン島南部への派兵が行われた。劉台二は
バタヴィアへ連れて行かれて、オランダとの協力協定にサインするように迫られた。その
結果、蘭芳公司に対するオランダの支配が強まった。

原住民反乱が蘭芳公司の力をさらに弱めた結果、ポンティアナッスルタン国内の自治領と
いう過去の立場はオランダの保護領という内容に変化した。オランダ政庁はポンティアナ
ッに代表者を置き、選出された蘭芳公司の総長をレヘントに任命する操作を行って支配権
を握った。[ 続く ]