「インドネシア鉄道史(55)」(2025年12月04日) 1884年6月にクタラジャ〜ウレーレウェ線が戦略上の理由で最初の1067ミリゲー ジから750ミリゲージに取り換えられ、その後建設されるアチェの鉄道路線網はすべて 750ミリゲージで作られた。 クタラジャ周辺に設けられた防衛拠点を結んで上のように建設されたアチェの鉄道網は、 反オランダ抵抗戦のターゲットにされたようだ。1885年から市民の利用が許可されて 公共運送機関になったものの、反オランダテロのターゲットにされたのが実態だった。一 般市民を巻き込むのはテロの常とう手段なのだから。行政当局は市民が職場への通勤に鉄 道を使うことを禁止した。1886年にクタラジャ防衛拠点を結ぶ鉄道網が完成して、ア チェトラムの鉄道線路総延長は40KM前後に達した。 1896年に始まった対テウク ウマル戦争のために、KNILは敵が本拠地を置いたピ ディへの攻勢準備に取り掛かった。ピディはクタラジャから70KMほど離れている東海岸 部の県でシグリをその中心都市にしており、その間を街道が通っていて、ランバルがクタ ラジャ側の出入り口になっている。 KNILはそれまでのクタラジャ防衛方針をかなぐり捨ててアチェ制圧攻勢に方針を転換 した。クタラジャ周辺に構築された防衛拠点網を廃棄して、総力をあげて反抗軍を撃滅す るという方針だ。防衛拠点を結んでいた鉄道路線は撤去し、ピディに向けて軍用鉄道を敷 設するのである。 1897年から1903年までの間にクタラジャ周辺の鉄道線路はウレーレウェ港〜ラン バル12KM区間とほんの一部の区間を残して撤去された。1896年にランバルから9? 先のSamahaniにKNILの基地が設けられ、1901年にはランバルの防衛基地が閉鎖さ れてサマハニに移った。 1897年にランバルからサマハニ経由で15キロ先のグレカンビンGle Kambingへ線路 が延長され、11月に運行が始まった。一般市民の利用も許されている。1898年には グレカンビンからスリムムSeulimeumへ、そしてスリムムからパダンティジPadang Tidji へと段階的に線路は東に向かい、1900年11月にはシグリとパダンティジ間を列車が 一日2往復するようになった。その年にシグリとロッスマウェLho Seumaweh間158KMの 鉄路建設工事が承認された。 1901年11月20日にシグリからムルドゥMeureudoeまでの100KM区間が開通し、 パンテロンPanteh Lhongとロッスマウェ間の工事が1902年9月に完了した。シグリ〜 ロッスマウェ区間は1903年2月20日に開通した。 ロッスマウェ〜イディIdi区間98KMの鉄路建設承認は1901年に出されており、工事 はさらに続けられた。このルートの完成は1904年4月1日だった。イディからもっと 南方のランサLangsaまでの64キロ区間が1907年に開通した。イディまでの建設工事 は常にKNILの警固下に行われてきたのと様変わりして、この区間の工事はやっと武装 部隊の付かない平和な工事になった。 ランサからクアラシンパンKwala Simpangまでの32KM区間が1912年9月にオープン し、クアラシンパン〜パンカランススPangkalan Soesoe50KM区間が1917年に完成し た。クアラシンパンは北スマトラとの州境に近い町で、ランサからメダンに向かう街道は 州境沿いを南下してから州境を越えてブシタン郡に入り、東南にあるメダンの町を目指す。 しかし鉄道線路はブシタンに達してから東方に位置する北スマトラ州最北の港町パンカラ ンススへと延ばされた。 支線としてランバルから94KM東方にあるブルヌムBeureunoemからランムロLam Meuloへ の6KM区間が1906年6月15日に、スリムム〜クデブルウェKeude Breueh間30KMが 1908年4月1日に開通している。[ 続く ]