「インドネシア鉄道史(58)」(2025年12月07日) 1970年代までビルエンBireuenの町に列車が来ていた。列車がやって来なくなってか ら二十数年後の1999年、アチェ州の分離独立を望む民衆の声に対するオルバレジーム の軍事作戦地区指定という力づくでの抑圧がレジーム崩壊のために終わりを告げてからそ れまでにも増して住民投票要求の声がトーンアップしたアチェを、スハルトを後継したハ ビビ大統領が訪問した。 ハビビはアチェに対して共和国陸軍が行った破壊と殺戮を謝罪し、アチェ復興のための政 府方針を州民に告げた。多岐におよぶ公約には運輸関連も含まれており、その目玉になっ ている空港の拡張とメッカ巡礼航空便のサウジへの直行航路開設、アチェ鉄道網復活をハ ビビは語った。 バンダアチェ〜シグリ区間は1976年に運行が停止し、シグリ〜パンカランスス間も1 982年に列車が走らなくなった。ということは、オランダ時代に立てられたビルエン駅 舎は1980年ごろまで使われていたにちがいあるまい。 ハビビ大統領が公約を残してアチェを去ったあと、昔からあったビルエン駅舎が解体され て、そこから3KMほど南に離れた場所に新駅舎が建設された。ビルエンの街中を抜ける鉄 道線路は新しい場所に敷かれたのだ。 2016年に廃線巡りをルポしていたコンパス紙取材班がビルエンの町を訪れて旧駅舎の 場所を市民に尋ねたものの、覚えているひとに出会わない。Tハムザ通りのレストランで 店主に尋ねてみたところ、店主は表通りの向こう側を指差した。道路の向こう側には新し い建物が並んでおり、右の方にパサルがある。左側にはモスクがあって店舗住宅が続いて いる。 「うちは駅向いのこの土地を買ったんですよ。駅はとても賑わっていました。線路は4対 も並んでいました。わたしもあの駅からサマラ~ガへ往復したことがあります。ビルエン とサマラ~ガの間には駅が9ヵ所ありました。」 コンパス紙記者はビルエンの街中に設けられた鉄道線路を見て回った。線路あるいは高架 橋の土台などはロッスマウェの方角を指していた。ある場所には道路をまたぐ高架橋が設 けられていたものの未完成のままになっていて、まだ新しいコンクリート構造の橋の上に 線路は敷かれていない。その場所で記者は住民のこんな声を耳にした。 「これは2年前に作られたんですよ。また列車に乗れるってみんな喜んでたんです。とこ ろがこんな中途半端な状態で作業者がいなくなりました。こんなことをするのなら、やら ない方がマシですよ。」 既に線路が敷かれている場所を見た記者はそれが1435ミリゲージになっていることに 気付いた。国鉄はトランススマトラ鉄道網を1435ミリで建設する方針を立てたのだ。 トランススマトラ鉄道網はオランダ時代に設けられた鉄道網を結んでアチェからランプン までスマトラ島を縦断する一貫路線を構築する壮大な計画だ。 ジャワ島は全島内にオランダ人が既に鉄道網を張り巡らせた。広軌と狭軌の線路が混じり 合っていた鉄道網を日本軍が1067ミリに統一し、それはいまでもそのままにされて使 われている。 クルエンマネKrueng Mane〜ブンカBungkah〜クルエングクエKrueng Geukueh間でトランス スマトラ鉄道線が建設され2013年12月1日から試験運行が開始された。ほぼ30年 間鉄道の不在が続いたアチェで再開された唯一のその11.35KM区間で、残念なことに 踏切事故が2回発生した。その事故を重く見た国鉄側は2014年7月半ばに試験運行を 中止した。一般道路との立体交差がクルーシャルな問題になっている。[ 続く ]