「インドネシア鉄道史(64)」(2025年12月13日)

北方のアチェとの州境にあるブシタンを経由してパンカランススに向かう路線はビンジャ
イから延ばされ、全長81KMのその路線の建設は段階的に行われた。
1903年6月30日 Binjai - Pungai - Kuala Begumit - Kuala Bingai - Stabat
1904年8月1日 Stabat - Tanjung Selamat - Kuala Pesilam - Tanjung Pura
1904年12月15日 Tanjung Pura - Gebang - Pangkalan Brandan
1919年12月29日 Pangkalan Brandan - Besitang
1921年12月1日 Besitang - Pangkalan Susu

ブシタン駅は北スマトラ州ランカッ県ブキックブ村にASSが建てて1917年にオープン
した。DSMがパンカランブランダンから線路をブシタン駅まで建設したとき、この駅には
北からやってきた750ミリゲージの線路が既に入っており、その線路はパンカランスス
まで伸びていた。

そこにパンカランブランダンから北上して来た1067ミリゲージの線路が入って来たの
である。その二種類のゲージの線路はパンカランススに向かうためにブシタン駅から出た
場所でひとつに合体し、三本レールとなってパンカランススに達した。
このビンジャイ〜ブシタン線は鉄道線路老朽化という理由で2008年に国鉄が運行を廃
止した。


デリ鉄道会社は最初の10年間で投資回収を完了させて利益が計上されるようになったと
語られている。1910年には一等車乗客50,230人、二等車乗客151,000人、三等車乗客
156万人を運び、乗客バゲージ1,319トン、カーゴ16.3万トン、家畜2千頭を輸送して35
0万フルデンの鉄道運行収入を獲得した。その年の鉄道運行コストは145万フルデンだ
ったそうだ。1914年には運行距離が263KMに達している。

1917年には乗客270万人、貨物61.7万トンという営業実績が記録された。同社
の業績がピークに達したのは1937〜1939年で、その期間に2百万フルデンの収益
が上がった。

インドネシア共和国が完全独立を果たした後も、DSMは北スマトラの鉄道運行事業を数年
間継続した。オランダ政府がそれを外交方針の中で展開し、共和国政府がオランダ側の意
向を受け入れたのである。しかしその状態は1963年4月に終焉を迎え、インドネシア
共和国国有鉄道会社に全資産が移管された。


鉄道はインドネシア語でkereta apiと言い、鉄道に関する会話の中で往々にしてkeretaと
省略される。ところが北スマトラでその習慣を行ってはならないのだ。なぜならkeretaと
いう言葉は北スマトラでオートバイを意味して使われているからだ。メダンで北スマトラ
住民と会話しているとき、「ランタウプラパットへkeretaで行く」と言えば相手は呆気に
とられること請け合いだ。面倒でもkereta apiと言わなければならないのである。

北スマトラ州内の乗客列車の運行は4路線が依然としてアクティブになっている。メダン
〜ランタウプラパット線、メダン〜タンジュンバライ線、メダン〜プマタンシアンタル線、
メダン〜ビンジャイ線がその4路線で、メダン〜ランタウプラパット線だけエグゼクティ
ブクラスがあり、他の路線はビジネスとエコノミーだけ、あるいはエコノミーのみという
路線もある。

現在の鉄道貨物はパーム原油・ラテックス・パームカーネル油・石油燃料・肥料・セメン
トがメインを占めている。タバコ葉が没落したのは時代のなせる業だった。[ 続く ]