「葉巻(5)」(2025年12月15日) ある弁護士は、クライエントがたいてい葉巻を吸っているために自分も葉巻党になったそ うだ。クライエントとの雑談の中に共通の趣味が混じれば、人間関係の強化が期待できる にちがいあるまい。 「最初はライフスタイル紹介のTV番組で知りました。葉巻はタバコみたいに吸いこまな いから、健康へのリスクは小さいですよ。喫煙は一日にせいぜい2本です。クライエント とのディナーのあとで吸う以外には、気分しだいでもう一本。」 植民地時代のインドネシアで、タバコ葉は重要な輸出商品のひとつになっていた。北スマ トラの東海岸地方が有力な産地になり、デリ産タバコ葉が葉巻のラッパーとして世界的な 人気を集めた。そのためにデリ葉の葉巻を吸うと喉の奥にスマトラの味が残るという言葉 が人口に膾炙し、葉巻愛好者たちはスマトラの味を求めて葉巻を選択した。デリ葉以外の タバコ葉は、たとえキューバやドミニカ産の高級品であってもスマトラの味がしないとか れらは述べている。 デリ地方のスルダンブダガイを流れるウラル川とランカッのワンプ川にはさまれた土地が タバコ葉栽培にとても適していた。ブキッバリサンから吹き下ろすバホロッ風がタバコ葉 の乾燥度を最適に保った。明るい茶色の乾燥葉が消費者の人気を集めた。 デリ農園の発端はオランダ人ヤコブス・ニンハウスの功績に負っている。ニンハウスは東 スマトラで農園事業を興したパイオニアであり、1863年にやって来てから6年後にタ バコ会社Deli Maatschappijを設立した。 それまでジャワ島で働いていたニンハウスが東スマトラに移ったのは、デリスルタンであ るマッムッ・アラシッの妻の弟のサイッ・アブドゥラがデリの土地で農園開発を行う壮大 な計画を立て、人材を探しにジャワ島に赴き、東ジャワのルマジャンでニンハウスに巡り 合ったことが契機だったと言われている。 1889年には大小179の農園がデリ地方を埋め、中国人・インド人・ジャワ人の農園 労働者が何千人もデリ地方にやってきて働いた。デリ地方の新しい中心地としてメダンの 町が勃興し、農園事業と産品輸出のヘッドクオータとしてさまざまな機能がそこに集まっ てスマトラ最大の都市にのし上がって行った。スルタンすらデリにあった王宮をメダンに 移転させている。 1957年のオランダ資本国有化の際に全国にあるオランダ資本の事業は国有化されたが 実態も見ないで一律になされたわけでは決してなく、デリ地方で16ヵ所の農園を経営す るDeli Maatschappijと6ヵ所の農園を持つSenembah Maatschappijは生き残った。国有化 されたタバコ農園の多くが倒産したのは、あたかも政治で農園事業が行えないことを示し ているかのようだ。 生き残ったタバコ農園は1965年に第9ヌサンタラ農園会社の経営下に入り、総栽培面 積5万9千Haの農園から年間十数万バル(balはおよそ80KG)のタバコ葉が生産された。し かし1996年に第2ヌサンタラ農園会社との合併が行われたとき、タバコ農園の数は1 2ヵ所に減少し、栽培面積も4万3千Haになっていた。都市領域が拡張するにつれて農園 は住宅地や商業センターに変化し、2007年に農園数は7ヵ所になり、2013年には ついに3ヵ所にまで落ち込んでしまった。 2010年から第2農園会社はタバコ葉の競売をビンジャイで行うようにした。米国のタ バコ会社は年間1千バルの供給を望んでいるものの、その量を作るには320Haを使って 栽培しなければならない。現在第2農園会社の栽培面積はそんな広さになっておらず、供 給能力は不足している。 そんな少ない生産量であっても2016年の競売にはデンマークのスカンジナビアタバコ、 オランダのコルテスやデ オリファント、ドイツのヘルマリンクーネなどのタバコ生産者 が参加していた。[ 続く ]