「インドネシア鉄道史(66)」(2025年12月15日) ブキッティンギ駅は1891年11月1日にオープンした。オープンした時の駅名はブキ ッティンギでなくてFort de Kock駅だった。1986年に閉鎖されたブキッティンギ駅の 一帯は現在食堂街Stasiun Lambuang Bukittinggiになっている。 ブキッティンギの町はインドネシア共和国初代副大統領モハンマッ・ハッタを生んだ。ハ ッタの生家はブキッティンギ駅からほぼ真北に9百メートルくらい離れた場所にあり、今 は博物館になっている。その博物館の表通りはスカルノハッタ通りと名付けられていて、 わかりやすい。オランダ時代にそのスカルノハッタ通りはJalan Aur Tajungkang Tengah Sawahという長い名称の通りだった。ハッタの生家の向いを鉄道線路が通っていた。 ブン ハッタは1902年にその家で生まれた。かれの父シェィッHMジャミルはパヤク ンブのバトゥハンパルの人で、母のサハナがブキッティンギで生まれ育った。1910年 ごろ、ハッタはブキッティンギの国民学校sekolah rakyatに通った。 朝、パヤクンブから列車がやってくると、ハッタの生家の近くにあるダマの木のそばに停 車する。するとまだ少年のハッタが客車から降りてきて生家に入る。家の表には一緒に登 校する仲間たちが待っている。そしてみんなで歩いて学校に向かうのだ。だが時には自転 車で行くこともあったし、あるいは馬車を使うこともあった。 列車の走る音は遠くまで聞こえる。ハッタの仲間たちはみんなその音を時計代わりにして いた。列車がダマの木の傍に停まる前に家を出なければ登校仲間たちから取り残されてし まう。列車の停まる音が聞こえてきたら、もう大慌てだ。 駅などないダマの木の傍で列車が停まり、ハッタがそこで客車に乗り降りしたのは、ハッ タが特別扱いされていたということを意味していない。その時代、乗客の要請に応じて列 車は客の降りたい場所で停車した。列車に乗りたい者も駅まで行く必要がなく、列車が速 度を落とす場所まで行って道端で待っていればよかった。切符はもちろん車掌から買うこ とになる。国民学校を終えるとハッタはパダンのMULOに入った。かれはパダンでの通 学にも鉄道をよく利用したそうだ。 さて、鉄道建設の最大の目的地であるオンビリン炭鉱を目指すルートもパダンパンジャン から南下してシンカラッ湖の東岸を迂回する形で継続された。シンカラッ湖の南東に位置 するソロッに達すると線路は北東に向きを変えて23KM離れたムアロカラバンに到達した。 鉄路はサワルントの町をその中腹に抱くプンチャッポランPuncak Polanの麓まで1892 年にたどり着いたのである。西スマトラにおける鉄道建設工事の最大の目的が三年間でほ ぼ9割がた達成されたと言えるだろう。 Padang Panjang - Kubu Kerambil - Sumpur - Batu Tabal - Kacang - Singkarak - Solok - Sungai Lassi - Silungkang - Muaro Kalaban しかしムアロカラバンとサワルントを結ぶ鉄道建設が次に立ちはだかる難関だった。その 間をつなぐ山道は大きい傾斜の場所に満ちている。鉄道線路がそこに設けられるまで、水 牛あるいは馬の引く荷車が石炭を積んでその街道を下り、空荷の車を引いてまた山道を登 っていたとツアーガイドが語ってくれた。たとえ空荷であっても登るのはたいへんだろう と思わせるほどの難所がそのルートにいくつも見られた。 そのために鉄道線路の敷設とトンネル建設が同時進行する計画が組まれた。1890年代 に入ってから、東インドの各地からパダンにたくさんの男たちが送られてくるようになっ た。かれらは上半身裸で足には鉄鎖が枷られていた。そう、投獄されている犯罪者がその 工事に投入されたのである。ミナンカバウ人の間にorang rantaiという言葉が流行するよ うになった。エンマハーフェンに上陸したオランランテの群れは統率者に率いられ、隊列 を組んでサワルントに向かった。徒歩で、裸足で。[ 続く ]