「インドネシア鉄道史(69)」(2025年12月18日)

次にSSSが着手したのはムアロカラバンから東方のリアウ州トゥンビラハンTembilahanに
至る路線だった。トゥンビラハンはインドラギリ河の河口にあって沖合にリンガ島シンク
ップ島を擁する港町であり、シンガポール海峡の南部に位置している。

どうやらオンビリンの石炭をスマトラ島東海岸の港に運ぶアイデアが東インド政庁首脳部
の頭の中にあったようだ。もちろんリアウ州奥地の物産を港に運ぶというポイントも視野
に収めていたにちがいあるまい。鉄路建設工事は次のルートで進められた。
Muaro Kalaban - Padang Sibusuk (6,2 km) 
Padang Sibusuk ? Muaro (19,9 km)

ムアロまで完成して1924年3月1日から列車が走るようになったものの、世界不況の
ために東インド政庁は歳出抑制を開始し、1933年になってムアロ〜トゥンビラハン路
線の建設計画は最終的に取り消された。

1942年にスマトラ全島を占領した日本軍がムアロからリアウ州東海岸部へオンビリン
の石炭を輸送するために鉄道を敷いたのが、オランダ東インド政庁が立てた企画の実現だ
ったということになりそうだ。ただしオランダ人がリアウ州東海岸まで鉄道線路を建設し
なかった理由について、イ_ア語ネット内の記事を読んでいくと少なくとも3種類の説が
見つかるのである。

不況原因説とは違ってリアウ内陸部の物産輸送が経済性の確信を抱かせなかったためとい
うものがあり、また別にリアウ州内横断鉄道路は当時の技術レベルで克服しきれない要素
をその地勢が多々抱えていたためという説もある。この最後の説は、それを敢えて冒して
線路を敷いた日本軍の思慮の浅薄さという批判ポイントに論旨を導こうとする趣がわたし
には感じられた。このような政策決定の理由にすら、真理真実が複数出現するのだ。その
ありさまこそが人間世界の真理真実なのではあるまいか。


現在のパダン市インダルン町にセメント工場ができたのはオランダ時代の1911年ごろ
だった。オランダ時代にはセメント工場からエンマハーフェンの港にロープウエーでセメ
ントが運ばれていた。

インドネシア国鉄はパダン〜トゥルッバユル線の途中にあるブキップトゥスからインダル
ンのセメント工場までの貨物専用線を設けて1979年11月16日から運行を開始した。
今では西スマトラ州内でもっともビジーな鉄道路線という評価がこの路線に与えられてい
る。2019年データでは一日に42便が走っているそうだ。
Bukit Putus - Pauh Lima - Indarung

オンビリン炭鉱とエンマハーフェンが結ばれてから石炭を満載した貨物列車がその間を走
るようになったとはいえ、客車ももちろん連結されていた。鉄道を利用する乗客は大勢お
り、エンマハーフェンまで鉄道に乗るひとびともたくさんいた。港にやってくるKPMの
客船でバタヴィアへ行くためだ。でなければエンマハーフェンまで船で来たひとを出迎え
るために。

ミナン人がジャカルタへ飛行機で行くように変わったのはいつごろだったのだろうか?そ
のシフトが起こってから、トゥルッバユル港へ鉄道で行く人数が激減した。それでも、日
曜日や休日には客車だけで構成された列車が走っていた。2003年ごろまでトゥルッバ
ユル港は庶民の行楽地のひとつになっていたのだ。当然、港湾施設の外に乗客駅があった。
2003年を越えたころ、その乗客駅が姿を消した。

ブキップトゥス駅から線路が2本、違う方向に伸びている。ひとつは石炭積み下ろし場に
向かうもの、もうひとつはセメント袋詰め作業場に向かうもの。2003年に石炭輸送が
幕を閉じたために、石炭積み下ろし場はもう使われていない。かつては石炭を山積みした
貨車が機関車から外され、別の機関車が貨車を5両単位で小高い丘の上まで押していき、
丘の下に設けられている石炭集積場に積み荷を落とす作業がそこで行われていた。石炭集
積場は今、ただの廃墟になっている。[ 続く ]