「インドネシア鉄道史(75)」(2025年12月24日) スラウェシ島ではマカサルと、海岸に沿って南に47KM離れたタカラルの間を1923年 7月1日に初めて鉄道列車が走った。 タカラルには大きいサトウキビ農園があり、またマカサルのゴワ地区は米どころだった。 そしてスラウェシでは馬や牛など家畜の売買も盛んだったことから、マカサル〜タカラル 間の物産の輸送に鉄道が大きい便宜をもたらすと考えられた。 スラウェシ島での鉄道事業は1920年に東インド政庁が決定してその翌年に法規による 確定がなされたものであり、1918〜1919年ごろにはスラウェシ島での鉄道建設の 話題が新聞に掲載され、東インド国民参議会でも議論されていた。 国有鉄道会社Staatsspoorwegenがスラウェシ島のプロジェクトを遂行する現地事業部門と してセレベス地区国有トラム会社Staatstramwegen op Celebes (STC)を設けてその実行に 当たらせた。この組織名称についてはStaatstramwegen in Zuid-West Celebesという別の 表現が使われることもあったようだ。 このプロジェクトはタカラル〜マカサル〜マロス〜タネテを結ぶ構想で企画されたものだ ったが、タカラル〜マカサル間だけが実現し、その区間すら10年も経たないうちに閉鎖 された。本質的な問題としてオランダ人は経済性の読みを誤ったと言うことができるかも しれないが、最初の短距離区間での営業政策が消費者のモチベーション作りにまだ成功し ない段階で世界不況に襲われたという不運が招いた結果だったと見ることもできる。 タカラル〜マカサル線の建設工事は1922年に着工されて1923年7月1日にオープ ンし、1930年8月1日に閉鎖されたのである。1930年7月16日にSTCは路線運 行廃止を決め、8月1日に公式の式典が行われてSTCという組織も消滅した。 1929年9月に米国で始まった世界恐慌の影響が閉鎖の直接的なトリガーになったこと は言うまでもないが、各路線ごとの先行きの見通し次第で対応が違ってくるのが普通であ って、不況という理由をべた一面に使うわけにもいかないだろう。 鉄道がオファーしたマカサル〜タカラル間の運賃はトラックやcikarと呼ばれる馬車に比 べて高すぎたし、両ターミナルがどちらも海岸沿いに位置しているために海運という強力 な対抗馬が存在していたという解説がイ_ア語ウィキペディアに見られる。内陸部を通っ て半島の反対側までもっと長距離の鉄道が敷かれたなら、鉄道は間違いなく輸送費の面で 強い競争力を持つことができただろうという気がする。だからSTCの中にタカラルからジ ェネポントそしてバンタエンへの路線延長を勧める声が出たのも当然の帰結だった。 マカサル〜タカラル線は次のようなルートを通った。 Pasarbutung - Schijfbregweg - Mamajang - Jongaya - Mallengkere - Sungguminasa - Cambaya - Kalukuang - Aengbatu - Limbung - Ba'dok - Rappokallereng - Pallekok - Manongkoki - Bontomate'ne - Parikrisik - Pattalassang - Pa'rasangaberu - Takalar そしてマカサル市内にあるパサルブトゥンとマカサル港が支線でつながれた。 Pasarbutung - Pelabuhan Makassar パサルブトゥンはマカサル港から近い位置にある、古い伝統を持つ市場で、港で揚陸され た物産がパサルブトゥンに持ち込まれてそこから南スマトラの各地に散って行った。また マカサル周辺地域で産する商品もこの市場に運ばれ、マカサル港から船で海の向こうに運 ばれていった。賑やかな市場には時と場合によって闇市が立つのも自然の理であり、パサ ルブトゥンの名前は闇市としても赫々たる名声を誇っていた。[ 続く ]