「バタヴィアのフレンチクオータ(3)」(2026年01月03日) 1789年に帰国予定だった学術調査船ラペルーゼ号が戻って来ず、まったく音信不通に なったためにフランス国王ルイ16世が2隻から成る捜索隊を1791年に出発させた。 国王はジョセフ・オントゥアン・ブリニ・ダントレカストに捜索隊の指揮を命じた。捜索 隊には海軍軍人ばかりでなく、海洋学者や自然史学者なども加わった。ダントレカストは オランダ領東インドでの捜索のために外交ルートを通じてオランダ政府から推薦状を入手 している。準備万端整えた捜索隊は1791年9月28日にブレスト港を出帆した。 1792年1月に喜望峰に到着した一行はVOC政庁からの丁重な歓迎を受けた。そして インド洋を越えてからニューギニア島の海岸線沿いを進み、マルク諸島のアンボンに達し た。昔あれほどの繁栄を見せたスパイス貿易の根拠地が今や半ば廃墟と化している状況を 一行は目の当たりにした。スパイスを積み込もうとする商船であふれかえっていた港一帯 に船の姿はちらほらとしか見当たらないのである。 アンボンでひと月間すごした一行は1792年10月に捜索の旅を続けるため出発した。 タスマニア〜トンガ〜ニューカレドニア〜ソロモンを周遊したものの成果は何もない。一 方、乗船していた科学者たちは海図を作り、動植物の標本を作り、さまざまな調査を行っ て報告書を書いた。 1793年7月20日、捜索隊長ダントレカストが死亡したので、33歳のアレクサンド ル・エミヴィ・ドリボが団長役を後継した。ドリボは優秀な航海者だったが頑固な王制の 信奉者であり、乗船している学者たちのほとんどが革命派だった船内でしばしば対立が発 生することになった。 船隊が1793年10月19日にスラバヤ港の近くに達した時、ルイ16世が処刑され、 フランス共和国宣言が出され、共和国軍が近隣の諸国に対する革命戦争を開始したニュー スを耳にした。オランダに対する宣戦布告もなされていた。 スラバヤのオランダ行政官ファン ホーヘンドルプは入港して来た2隻のフランス船を差 し押さえたものの乗船者たちには上陸を許し、宿舎と食糧を世話し、病人を治療させた。 そのころのスラバヤはオランダ人居住地区・華人居住地区・プリブミ居住地区の三つに分 かれていて、川沿いに設けられたオランダ人居住地区の北端には海中に張り出した埠頭が 作られ、埠頭には木が植えられていた。オランダ人はその埠頭で散歩するのを好んだ。 バタヴィアのVOC総督との間で交渉が行われ、最終的に総督は誓約書にサインすること を条件にして船隊の出航を許可した。その一項に書かれていたのは、オランダに対する敵 対行動を一切行わず、モーリシャスに寄港せず、直接フランスに向かうという内容だった。 ドリボと革命信奉者たちの間の亀裂は確定的になった。 ドリボが赤痢で死亡すると乗船者たちはまとまりを失い、船は再びスラバヤに戻ってオラ ンダに差し押さえられた。乗船者の全員が捕虜になったが、捕虜交換のためにモーリシャ スへ運ばれた者も多数あった。 スラバヤに残された者たちの中の学者グループを統率したのは29歳のロセルだった。か れは調査成果である標本や海図、諸論文や報告を巧みに保管保存し、逸失や破損が起こら ないように努めた。VOCは最終的にそれらの学術資料と学者たちをフランスに帰国させ ることを決定した。学者たちと学術資料は1794年12月にオランダ船でスラバヤを出 発し、1795年1月に喜望峰に到着してVOC政庁の歓迎を受けたのである。ところが、 かれらの行く手には不運の蜘蛛の糸が張られていたのだ。[ 続く ]