「バタヴィアのフレンチクオータ(4)」(2026年01月04日) フランス革命軍との戦争の中で革命に心酔する青年たちが1795年1月19日にオラン ダ本国をフランスに同盟するバターフ共和国に変えてしまったのだ。そのときからイギリ スはオランダと交戦状態に入った。オランダ船はイギリス軍船の砲弾を受ける立場に変化 していたのである。 1795年6月10日、フランスに運ぶために分割された学術資料をオランダ船で運んで いたジュリオンはイギリス船に拿捕されてアイルランドに連行され、しばらくしてからロ ンドンに移された。鳥と貝の標本および書類のすべてがロンドンで押収され、二度とかれ の手に戻されなかった。 他の学術資料を運んでいたロセルの乗ったオランダ船もマルヴィナス島海域でイギリス軍 船に捕まった。運ばれていた鳥の標本1千2百羽超、1万を超える植物標本、トカゲ・ヘ ビ・魚類の標本の仕上がりの良さと種類の豊富さに感銘したイギリス海軍上層部がそれら の学術資料を王立協会会長であるサー ジョセフ・バンクスに見せた。その一方で、書類 の中にあった詳細な海図を海軍は熱心に複写した。その海図はイギリス海軍の全船舶に配 布され、19世紀を通して使用された。 サー ジョセフ・バンクスはバッキンガム宮殿執事長にその学術資料についての手紙を書 いた。その結果、イギリス王国は最終的にそれらの資料の大部分をフランスに返還したの である。ラペルーゼ号捜索という主目的は全くの失敗に終わったダントレカスト捜索隊は、 第二の目的である学術調査で大成功を収めたのだった。おまけにその大成功は手に汗握る 大冒険の結末でもあった。 ナポレオンの時代が終わりを告げた後でバタヴィアにやって来たフランス人は新首都ヴェ ルテフレーデンの中やその周辺部に住んだ。レイスヴェイク(今のフェテラン通り)やノ ルドヴェイク(今のジュアンダ通り)、そしてレイスヴェイク地区を東と西ではさむシタ デルヴェフ(今のフェテランI通り)とレイスヴェイクストラート(今のマジャパヒット 通り)に店をオープンしてヨーロッパ直輸入品の高級ショップを営み、あるいはホテル業 を始めた。 レイスヴェイクの一帯がバタヴィア最高のエリート商業センターになったのである。わた しがジャカルタ新参者になった1970年代前半にレイスヴェイク地区一帯は既にエリー ト商業地区の面影を喪失していた。フェテラン通り側は官庁街であり、ジュアンダ通りも オフィスやカーディ―ラーなどの連なるくすんだ印象の街並みを目にしただけで、そんな 光景から250年前の高級ブティックが建ち並ぶ華やかなショッピング地区の姿など想像 もつかなかったし、雰囲気のかけらすら感じられなかった。 ただしジュアンダ通りにジャカルタで著名な、格式を感じさせる中華や西洋料理の高級レ ストランがあったり、またナイトクラブなどもあって、官庁ビジネスセンター地区にそぐ わない不思議な印象をわたしが抱いたのも歴史への無知がなせる業だった。地元のひとび とにとってはきっと、地域の格というものが存在していたのだろう。 実はその1970年代にわたしがジャカルタを一通り見て回ってから、世界のどの都市に もあるはずのエリートショッピング街に出くわさないことが別の不思議さをもたらしてい た。コタのグロドッ、パサルスネン、パサルバル、パサルタナアバン、パサルブロッケム などショッピング街は各所に分散しており、それぞれの場所で高額品から低額品までの商 品が幅広く売られていた。 ところがその一方で、「電気製品を探すならどこのパサルへ行け」「家具を探すならどこ そこへ行け」という言葉をわたしは頻繁に耳にした。つまりその種の専門性が、一見する と同じように見える各パサルにはあったということのようだ。 もちろん、250年前のエリートショッピング街だったジュアンダ通りやプチェノガン通 りはとっくの昔にジャカルタのショッピング地図に出てこないエリアに変化していたので ある。[ 続く ]