「バタヴィアのフレンチクオータ(5)」(2026年01月05日) 1823年、パリ出身のテイラーであるオジェ兄弟のブティックOger Freresがレイスヴ ェイクストラート北端のハルモニ交差点に直接面する場所にオープンした。レイスヴェイ クストラートは東側にハルモニ社交クラブがあり、社交クラブ建物に南接して小規模な住 宅エリアがあった。反対の西側にはヨーロッパ人が経営する高級ショップが並んでいた。 その商店街の北端にパリ最新ファッションを売り物にするテイラーのオジェフレールが店 の正面を今のガジャマダ通りに向けて構えたのである。 オジェフレールの店構えは正面をハルモニ交差点のある北に向けていたので、昔のハルモ ニ交差点を北側から撮った写真の中にしばしば登場している。表ファサードの円柱が支え ている屋根の上にOGER FERERESの文字が見える。 パリ最新ファッションを売り物にするオジェフレールはバタヴィア随一の仕立て屋の評判 を取った。政界ビジネス界のエリート一家がこぞってひいきにしたのでたいそう栄えたそ うだ。でなければあれほどの一等地に店を構え続けるのは困難だっただろう。 レイスヴェイクストラート一帯に住むフランス人が少なくなかったことから、そのエリア をオランダ人はFransche Buurtという俗称で呼んだ。バタヴィアに住んだフランス人の中 に、言葉や芸術などのフランス文化を教えるビジネスに携わる者も少なくなかった。とは 言っても、このフランセビュルツは住民の大半がフランス人やフランス系と言うほどのも のでもなかったらしい。 西ジャカルタ市プタンブラン地区にあるテキスタイル博物館の建物は19世紀にフランス 人が建てたものだ。そのフランス人に関する情報はまったく見当たらない。建物の裏側は 広大な空き地になっていたそうだから、そのフランス人は地主暮らしを楽しんだのかもし れない。 プタンブラン地区もフランセビュルツだったのであり、フランス人が「たくさん」居住し たと語っている歴史家もいるのだが、その「たくさん」がどんな規模だったのかがよく分 からない。現在のプタンブラン地区にフランス文化の遺産はまったく感じられず、ただフ ランス人が豪邸を建てたという話しか残っていないのである。 タナアバン市場の西側に続いているエリアがプタンブラン地区だ。その間を西バンジルカ ナルが分断しているもののその運河の完成は1919年であり、それ以前は地続きか、も しくは渡渉できる規模の水流があったくらいではないかと推測される。 Petamburanという地名は基語にtamburという言葉が使われており、インドネシア語として のその語彙はドラム(小太鼓)を意味している。また上面ヘッドだけの手持ち太鼓(鈴の ないタンバリン形状)をタンブルと呼ぶインドネシア人もたくさんいるし、その同じ名前 を持つトルコの弓奏弦楽器さえをもインドネシア人はtamburと呼んでいる。 昔からヨーロッパでは兵隊の行進に鼓手が付き物だった。兵隊の行進で足並みをそろえさ せるために使われていたポルトガル軍の小太鼓はtamborであり、インドネシア人はその名 称をtamburという音で摂り込んだのかもしれない。 プタンブランの地名の由来についてイ_ア語グーグルAIは、その地区で軍隊の演習が行わ れていたため、あるいはプタンブラン墓地での植民地軍兵士の埋葬に小太鼓が使われたこ とからそんな地名になったと解説している。また別説として、鼓手が死亡してジャティの 木の下に埋葬されたので地名がJati Petamburanになったというものや、鼓手の組合がそ こにあって、Perkumpulan Penabuh Tamburという名称がPetamburanに短縮された結果だと いうものもある。鼓手の組合は兵士の埋葬の際の出演という仕事のために作られたものだ ったと推測される。 ちなみにプタンブラン墓地には1931年ごろ日本人会が建てた納骨堂があり、今でも毎 年慰霊祭が営まれている。その関連でプタンブラン地区を訪れた日本人読者もいらっしゃ るのではあるまいか。果たしてその中に、KSトゥブン通りを通過中の車内でフランスの 香りを嗅いだ方がいらっしゃっただろうか?[ 続く ]