「バタヴィアのフレンチクオータ(6)」(2026年01月06日)

プタンブランにヨーロッパ人兵士の行進する演習場があったという説に疑問をもたらす要
素がある。わたしがどちらを信じているということでなく、その説にとっての弱点になり
かねない要素を示しているだけだ。

VOC時代のバタヴィアVOC軍兵舎はカスティル内にあり、演習場はカスティル南側の
広場が使われていた。今のプルイッ地区とタンジュンプリオッ港を結ぶ高架自動車専用道
の北側がその場所で、今のチュンケ通り北端からバタヴィア市庁舎前広場までが儀典道路
になっていた。

プタンブラン地区はそこから直線距離で6.5KM離れている。すぐそばに軍隊演習場が用
意されているにもかかわらず、VOCの軍務社員とアジア人傭兵が演習のためにそこまで
行っただろうかという疑問をわたしは感じるのである。VOC時代でなくて東インド政庁
時代であれば、東インド植民地軍はヴェルテフレーデンにいたので、プタンブランは3.
5KMほどの距離に近付く。ただしヴェルテフレーデン時代の軍隊演習場は今のモナス広場
だった。ヴェルテフレーデンから目と鼻の先の場所に巨大な空き地があるのに、3.5KM
も離れた場所まで演習しに行ったのだろうか?

ひょっとしたら、オランダ時代の演習でなくてポルトガル時代の兵隊演習だった可能性も
あるにはある。なにしろタンブルという言葉がポルトガル語源のようだから、プタンブラ
ンで行われた兵隊の演習はポルトガル兵のものだったかもしれない。

ところがスンダクラパにポルトガル人は要塞を建てておらず、軍隊は常駐していなかった。
ファタヒラ率いるバンテン軍が攻め込んで来たとき、マラカから派遣されてきた6百名ほ
どのポルトガル軍勢がパジャジャラン軍部隊と一緒にカラパ港の防衛配置に就いていた。

その時代のスンダクラパ一帯の住民人口を考慮に入れるなら、スンダクラパの町の周辺に
は広い空き地がいくらでも見つかっただろうから、防衛任務を置き去りにしてわざわざ演
習のためにポルトガル兵がそんな遠方へ出かけただろうかという疑問が浮かんでくる。


それに対比するなら、小太鼓のタンブルはプタンブラン公共墓地で鳴らされていた可能性
の方が高いような気がわたしにはするのである。ただまあ、そのタンブルがアラブ音楽の
ための手持ち打楽器、あるいはトルコの弦楽器では絶対になかったとも言えないような気
がするわけで、この地名の詮索は実を結びそうにない。

プタンブランという土地はハビブ・リジク・シハブがイスラム守護戦線FPIの本部を構え
た場所であり、イスラム強硬派がムスリム社会にイスラム倫理を厳格に守るよう強制する
諸活動の震源地という面での知名度は高かったものの、他の面ではあまり話題に上らず世
間の関心も集まらない地名だった。

イスラムという切り口から眺めるなら、いまテキスタイル博物館になっているフランス人
の建てた豪邸はその後オットマントルコ帝国のバタヴィア領事が住んで仕事場に使い、そ
の領事の娘婿になったサイェッ・アブドゥラ・ビン アルウィ・アラタスが舅の没後その
豪邸と両隣を買い取って現在の博物館の建物に改築した。

サイェッ・アブドゥラはバタヴィアの広大な土地を所有する地主で大金持ちであり、植民
地時代の末期に種々のイスラム運動のスポンサーになった。折しも中東でパンイスラミズ
ム運動が勃興していた時代だったので、サイェッ・アブドゥラはその運動をプロモートし
た。それらの話を見るにつけ、プタンブランはむしろムスリム社会に縁の深い土地という
印象が湧き上がってくる。

ハドラマウトからアラブ人の移住の波が押し寄せてきたとき、タナアバンが移住者の選択
肢のひとつになった。タナアバン市場がヤギ市場の顔を併せ持つようになったのはアラブ
人の居住者が増えたためだと言われている。アラブ人の一部が西隣のジャティプタンブラ
ンに流れた可能性は十分に高そうだ。[ 続く ]