「バタヴィアのフレンチクオータ(7)」(2026年01月07日)

テキスタイル博物館がプタンブラン地区に設けられたことに首を傾げたひとはいなかった
だろうか?プタンブランにはテキスタイルとの関りをイメージさせる事象が何もないのだ
から、「どうしてプタンブランに」という疑問が湧いて当然だ。ただしその疑問はブタン
ブランに西からアプローチする者の視点に宿ったものであり、東側のタナアバンを抜けて
プタンブランに入る者の目にはその因果関係が明白に見えていたはずだ。プタンブランの
テキスタイル博物館のある場所は東南アジア最大のテキスタイルマーケットであるタナア
バン市場を取り巻くグレータータナアバン内の一角に過ぎなかったのだから。

わたしにとってのプタンブランはペルニ病院だった。持病の状態チェックのために数年間、
毎月一回PELNI病院を訪れていた時期がある。PELNIとは国有海運会社のPT Pelayaran 
Nasional Indonesiaの短縮語だ。

植民地時代の1914年にオープンしたこの病院の名称は最初Het ziekenhuis van de 
Koninklijke Paketvaart Maatschappij(KPM) Djati Petamboeranとなっていた。オランダ
東インドの島々にある30の港を結んで海上航路の網の目を構築した王立海運会社がKP
Mだ。150ベッドを備えたこの病院はKPMの社員や現場雇用者の保健保障を目的に設
けられたものだった。

最初は3万平米の敷地に床面積7,754平米の病院が建てられた。1919年に4万平
米の土地が追加されたので施設の大型化がなされ、三つの建物群が並ぶことになった。フ
ロント部分は医師・事務長・看護長・料理長・事務員の住居とレクレーション設備。中央
部分は2階建てで78ベッドを擁するヨーロッパ人対象の病棟など、後部は運転手・使用
人等の居住場所や遺体保存所などで構成されていた。

KPMは1957年にインドネシア政府が国有化して名称をPELNIに変え、病院もインド
ネシアのものになった。Rumah Sakit PN PELNI Petamburanという公式名称は1975年
から使われている。


そんなプタンブラン地区を後背地に持つタナアバン地区はVOCがバタヴィアを建設した
初期からバタヴィア城市との深い関りを持つようになった。

JPクーンが奪ったジャヤカルタの町はチリウン川河口デルタ地帯の川の西岸に位置して
いた。王宮横の川岸には統治者であるパゲランジャヤカルタの御座船が常に係留されてい
た。一方、川の東岸は外国人居留地区になっていて、最大の居留者人口を持つ華人がそこ
の代表格になっていた。華人が実質上の主役になっていたというだけのことであって、パ
ゲランジャヤカルタがそこを華人居住地区に指定したのではない。

VOCはその東岸の海岸寄りの湿地帯にジャヤカルタで初の西洋式商館を建てた。その商
館が後にバタヴィアのカスティルに改造された。ジャヤカルタの町を奪って焼き尽くした
あと、クーンは川の東岸に住んでいた居留者の中でVOCに協力する者だけを拾い、残り
の者たちを追い払った。

VOCが新たに手に入れた直轄地での町作りは東岸から開始されたのである。東岸に巨大
なカスティルを完成させ、VOCが行う事業経営の中枢をカスティル内に置いた。南に向
けて幹部の住宅地が整然と掘割で区切られた区画の中に並び、ヨーロッパ式の暮らしを営
むために必要な社会施設が街並みの中に配置されていった。バタヴィア城市は東岸がエリ
ート地区であり、西岸がダウンタウンであるという格の違いがそこに映し出されている。
教会や病院、バタヴィア市庁舎などがすべて東岸に設けられていたのはそのためだ。

地域の格差の中にさえ、北から南へという上下の格差が持ち込まれた。東岸の北端にある
カスティルは単なる軍事上の防衛施設にとどまらず、総督が居住し、軍隊が本営を置き、
VOC本部オフィスがあり、バタヴィアの都市運営の諸機能までもがそこで営まれる、文
字通りの中枢母体になっていた。

カスティルの南に作られた住宅地区は北端のカスティルに近いほどVOC高官の豪邸が並
んでいたように思われる。同じ原理は西岸地区にも当てはめられたようで、北は社会的身
分の高いひとびとが住み、南はどん詰まりのスラムに近い貧困街だったそうだ。ただし北
端はバタヴィア港上陸場になっていたため、その一帯は公的施設で占められ、住民の居住
地区は少し南に下がったところから始まっていた。Tiang Benderaという地名は西岸北部
にあり、その名称の由来からも南北格差の原理が推察できる。[ 続く ]