「バタヴィアのフレンチクオータ(8)」(2026年01月08日) カスティル自体にも海から直接入れる門があり、VOCの要人を乗せる船は直接カスティ ルに接岸したようだ。西岸北端の上陸場はそうでない船と人間の出入りする場所だったの ではあるまいか。しかしその上陸場近くに迎賓館が作られたことがあったのは、カスティ ル内を見せたくないゲストのためだったのかもしれない。 そんな原理がバタヴィア城市内を真っ二つに分断するカリブサールによって形成された。 最初、バタヴィア城市は東と西に完全に分離され、川を渡るための橋は最南端の大門、す なわちPintu Besarにほど近い、現在のインドネシア銀行博物館の北側にあるJl. Bankの 橋ただ一カ所だったという説もある。 カリブサールが南北に真直ぐ走る運河の姿になったのはクーンを後継したジャック・スぺ クス第7代総督が命じた1631〜1632年の工事の成果だった。浚渫も併せて行われ た一定幅の直線水路は船舶の通行の便を高め、川沿いに倉庫が増えてバタヴィア城市内の 物資の備蓄量を高めるのに貢献した。川の改修工事が終わってからオランダ人はその川を De Groote Rivierと呼ぶようになったと語っている記事がある。ということは、改修工事 の前はカリブサールという名称でなかったということになりそうだ。 ジャック・スぺクスが総督職を継いだのはマタラム軍第二次バタヴィア進攻の中でクーン が死亡したためであり、当時のバタヴィアで人望の篤い実力者だったことが本国のVOC 取締役会にジャックの臨時就任を公認させる結果をもたらしたように思われる。 1609年に平戸にオランダ商館を開いて1621年まで初代と第三代の商館長を務めた 経歴を持つジャックは1622年にバタヴィアの参事会頭兼参事会議員になり、1624 年には教会諮問会の政治コミッショナーに選ばれている。 ジャック・スぺクスの綴りはJacque Specxであり、オランダ人がヤックと発音するJackと いう綴りではない。Jacqueはフランス語綴りなのだ。フランス語ではジャックと発音され ていて、しかも現代オランダ人のマジョリティもこの綴りをフランス語と解釈するために ジャックと発音している。この人物の名前を何が何でもオランダ式発音にしたがっている のは極東のどこかの国くらいかもしれない。 マタラム王国のスルタンアグンが抱いたジャワ島統一の夢には障害が二つあった。ジャワ 島西部北岸に並んでいるバンテン王国とVOCのバタヴィアだ。バンテン王国の属領だっ たジャヤカルタを奪取したVOCにバンテンを滅ぼすための同盟をスルタンアグンは申し 入れたが、クーンはそれを蹴った。スルタンアグンはVOCに刃を向けた。 1628年8月、スルタンアグンは1万人近い兵力を動員して数人の将軍や服属国の王子 らに率いさせ、バタヴィア出兵を行った。その第一陣は海と陸からバタヴィアを陥落させ ようとしたものの海側の策略に失敗し、陸側での戦闘も一進一退になったためにスルタン アグンは第二陣を進発させた。再び1万人もの兵力がやってきたのを知ってVOC側は震 え上がった。 ところが第二陣は総攻撃を行わず、バタヴィア城市に流れ込む水流を止め、あるいは腐敗 させて飲用水を失わせる戦略を執った。VOC側はマタラム軍の物資補給路を破壊したた めにマタラム軍は食料が欠乏して工事がろくに進捗しない。そして雨季がやってきた。マ タラム軍の兵隊はいつの間にか姿を消していた。 この1628年のマタラム第一次出兵のとき、陸側の攻撃部隊はバタヴィア城市からほど 近いいくつかの場所に陣地を構えた。そのときタナアバン地区にもマタラム軍の一部隊が 陣営を築いたと言われている。今のタナアバン市場南を東西に走るファッルディン通りを 越えた場所にあるアルマッムルモスクはそのときマタラム兵が建てたものだそうだ。もち ろん今見えている姿でそんな時期に建てられたはずがない。[ 続く ]