「バタヴィアのフレンチクオータ(9)」(2026年01月09日)

翌1629年8月末に再びマタラム軍がバタヴィアの南部に姿を現した。この第二次出兵
では総兵力1万4千人がすべて陸側を進軍して来た。軍勢はジャティヌガラに近い場所に
本営を置いたので、後になってその土地にマトラマンという地名が与えられることになっ
た。MataramanがどうしてMatramanになったのかはよくわからない。

スルタンアグンは前年の失敗に鑑みて、VOCに匹敵するほどの大砲や銃を用意した。刀
槍による格闘戦が戦争の勝敗を決めるのでなく、離れた距離から撃ち合う銃火器の威力が
勝敗の決定要因であるという西洋型戦争の本質をスルタンは即座に見抜いたのだ。最新鋭
の真鍮砲は射程距離も弾着精度もVOCの物をしのぐレベルだったそうだ。

マタラム軍はバタヴィア城市内に砲弾を雨あられと降らせ、その砲撃にバックアップされ
てマタラム兵は城壁外の要塞、城壁の防衛ポストなどへの突撃を敢行した。ホランディア
要塞は陥落した。

戦況はマタラム側が優位に立ち、VOCは必死の防戦に当たっていた。その情勢が最後ま
で進めば、ジャワ島の西洋人による植民地化はまた異なる歴史を歩んでいたかもしれない。
その戦争ではマタラム側が勝っていたように見えるのである。

ところが、9月22日にマタラム軍はバタヴィア城市を包囲していた最前線の砦や陣営を
取り壊し、ジャティヌガラ方面に撤退して行ったのだ。VOC側の最前線にいたひとびと
は呆気にとられたものの、その好運を喜ぶのに吝かでなかった。ただし勝っていたマタラ
ム軍が撤退した謎にもしも総司令官であるJPクーンの死が関わっていたのであるなら、
かれらは何を思っただろうか?


9月21日の夜にクーンが急死した。死因について、病死・戦死・暗殺死などいくつかの
説がある。つまりVOCの報告書や記録に病死と書かれているが、それは嘘だと言ってい
る立説者がいるということだ。

勝利を確定的にせず、突然包囲網を解いて去って行ったマタラム軍の行動の謎解きをして
いる記事は見当たらない。それどころか、大半の論説は二度目の出兵もマタラム軍が敗れ
てバタヴィア撃滅作戦は失敗に終わったという解釈をしている。それではスルタンアグン
が気の毒だろう。

この出来事に関してわたしの脳裏に、敵の大将が死ぬと敵軍は指揮系統の根源を失って空
中分解し、戦争が続けられなくなって軍勢は四分五裂に砕け散り、みんなが思い思いの方
向に遁走していた太古の戦争の姿が重なって来る。ひょっとしたら、17世紀初頭のジャ
ワ島でも似たような心理が戦場を覆っていたかもしれない。

敵の大将クーンの死を知ったマタラム軍総司令官は、VOCのバタヴィアという国の軍隊
もこれで空中分解し、どこかへ去って行くだろうと思ったかもしれない。他の情報が得ら
れないためにわたしはその現象をそんな要素で解釈しようとしているが、いざ蓋を開けて
みればとんだアナクロニズムということになるのかもしれない。
マタラム軍のバタヴィア進攻の詳細は下をご参照ください。
https://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html
[ 続く ]