「バタヴィアのフレンチクオータ(10)」(2026年01月10日) バタヴィア第一次進攻の際にマタラム軍がタナアバンに陣営を築いたという話は、Tanah Abangという地名の由来に関連して語られているものだ。abangというインドネシア語はブ タウィ・ムラユ語由来の「お兄ちゃん」およびジャワ語由来の「赤色」という語義を持っ ている。ジャワ語で赤土あるいは赤い土地を意味するtanah abangに相当する内容をブタ ウィ人はtane mereタネメレと言うから、タナアバンという地名はブタウィ人が付けたも のでないことがわかる。そうなると名付け親はジャワ人だろうという推測に至り、古い時 代にその地にやってきたジャワ人の歴史から多分1628年ごろではないかという推察が 生まれ、その説が立てられたように邪推できる。 しかしバンテン王国の発端にもドゥマッの軍勢という大量のジャワ人の移住があり、バン テン文化にはスンダとジャワの混合が見られるために、タナアバンというジャワ語をバン テン人が地名に付けた可能性を否定することも難しい。というのも、バタヴィア第3代カ ピテンチナの潘明岩プア・ベンガン(Phoa Beng GanあるいはPhoa BingamやPhoa Bing Gam と綴られているケースもある)がタナアバンまで運河を掘った際にその労働力になったバ ンテン人たちが命名したという説を述べているものもあるのだ。 初代カピテンチナのソウベンコンと同様、プアもバンテンからバタヴィアに移住した華人 のひとりであり、バンテン時代にはバンテン人と親しく交際していたと考えられている。 1633年にVOCに捕らえられて囚人になっていたバンテン人のワンサを解放するため にプアは100レアルの保証金を積んでワンサを自由の身にしたできごとがVOCの記録 に残っている。 いやそれどころか、ブタウィ人発祥以前にその地方の原住民だったスンダ人ですら、ジャ ワ語と同じ意味でタナアバンという言葉を使っていたのだから、ジャワ語[abang=赤]とい うファクターに拘泥するのは偏見かもしれない。 一方、オランダ植民地時代にオランダ人がタナアバンという地名をDe Nabangと表記し、 ブタウィ人はそれをTe Nabangと書いたという話もある。ただしここにも、どちらが先で どちらが後かという、卵と鶏の関係のように産み産まれる両者間の関係の逆転から完全に 免れている保証も存在しないようにわたしには思われる。 オランダ語の冠詞deは英語のtheに該当している。ブタウィ郷土史家の文化人リッワン・ サイディはnabangについて、多分既に絶滅した植物の一種ではないかと推測している。か れによれば、ブタウィ語にはteという接頭辞があって、別の単語に接続して複数を示した り物の形象を強調する機能を持っているそうだ。tetamu, tetampa, tetangga, tetuaなど がその例だ。 こちらの説に従うなら、こんなストーリーも推測できる。タナアバンの土地は最初ブタウ ィ人がトゥナバンと呼んでいたので、オランダ人がそれに倣ってドゥナバンと書くように なり、オランダ時代の書物や記録にDe Nabangという地名表記がしばしば出現した。 後世のインドネシア人がオランダ時代の記録を見てドゥナバンの語源を推察した。マタラ ム出兵の故事を知っているかれらの脳裏に、これはジャワ語タナ―バンの聞き間違いでは ないかという推理が浮かんだ。既に独立したインドネシア共和国はオランダ人の使ってい た地名をインドネシア語に正すべきだという風潮に倣って、その人々が古来元来の名称だ と信じたタナアバンという地名を使うことが推奨され、本来のトゥナバンは忘れ去られて タナアバンという新しい地名がその土地に冠せられることになった。 いや、これも単なる仮説にすぎない。仮説というのは人間が行う「信じる」という行為に よる裏付けを得て、一説として世の中に確立することができたものだ。そこにあるのは論 理性、他の諸事実を幅広く集大成して構成されたパースペクティブ、説得力などの要素で あって、客観的な事実真実によるものではない。神や仏の存在に対して人間が行えるのは 「信じる」という行為だけであって、客観的な事実真実としてそれを証明するのがきわめ て困難であることとそれは軌を一にしているとわたしは信じている。[ 続く ]