「バタヴィアのフレンチクオータ(11)」(2026年01月11日)

バタヴィア城市の外側一帯は水の淀む湿地帯であり、マラリア蚊の旺盛な繁殖地になって
いた。城市内のカリブサールは1632年に広い水流に変わっており、そこに流れ込む上
流部分をも改修して水の流れを促進させることは湿地帯の改善につながるという考えのも
とに、現在のパサルグロドッになっている地点と南のレイスヴェイク要塞を結んで運河を
作る計画が立てられた。運河はもっと南の、現在のチデン川のクブンシリ通り西端から水
を引いてくることになる。その結果、今のアブドゥルムイス通りの東を通りに沿って流れ
ている運河も作られてタナアバン地区とレイスヴェイクが繋げられた。

パサルグロドッ前の地点からは、北西に折れてパンチョラン地区を通過しカリブサールに
流れ込んでくるチデン川に繋げる流れと、北東に向けてピナンシアを抜けてからバタヴィ
ア城市の外に掘られた濠に注ぐチリウン川の支流に繋げる流れに分岐された。

ところがバタヴィア城市の統治者であるVOCはそのプロジェクトに当てる資金がない。
時のコルネリス・ファン デル レイン第10代総督は懐から巾着を取り出すと逆さまにし
て振って見せた。するとカピタンチナのプア・ベンガンが、「その仕事はわたしら華人が
やりましょう」と言い出した。プアは土木工事技術を修得しており、資金はバタヴィアの
華人社会から浄財を募ることになった。

工事は1648年1月に開始されて、その年のうちに竣工した。プアの功績を示すために
その運河はBingamvaartと命名された。しかし1661年になってその運河はMolenvliet
に改名されている。運河の両岸には建物が続々と建てられた。

ビンガム運河はバタヴィア城市とレイスヴェイク要塞そしてタナアバンを結ぶ交通路でも
あった。ただしこの交通路は水量があってこそ成り立つものであり、乾季に水が干上がれ
ば水運の役に立たなくなる。そのためにプアは1650年代にレイスヴェイクとノルドヴ
ェイクの両要塞を結ぶ運河を作って、今の独立広場の東側を流れるチリウン川の支流から
ビンガム運河に水を引いた。そのチリウン川の支流の方がチデン川よりはるかに太い流れ
だったから、バタヴィア城市とレイスヴェイク間の運河が乾季に枯れることはなくなった。
反対に雨季の増水に備えて、運河の東端とチリウン川の間に水門が設けられた。水門の上
に橋が架けられて水門橋Sluisbrugという地名が生まれた。


プアのその功績に報いるためにバタヴィア総督庁はプアにタナアバン地区の森林伐採権を
与えた。それまでは並の富豪だったプアが一躍、大富豪への道を歩み出したにちがいある
まい。森林が開かれたあと、プアはタナアバンのその土地をサトウキビその他のバタヴィ
ア城市が消費する物資の農園にし、特に砂糖を大規模に生産した。タナアバンで生産され
る砂糖・木材・ピーナツ油・ショウガ・ジャスミン香油・ココナツなどの産品が運河によ
ってバタヴィア城市に効率よく大量に送り込まれるようになったのである。

タナアバン地区に作られたそれらの産品の農園には、その農園を世話する者たちの住むカ
ンプンができてKebun Kacang, Kebun Jahe, Kebun Melati, Kebun Jatiなどという名前で
呼ばれた。それらの地名はいまだにそのまま使われている。クブンジャティはジャティプ
タンブラン地区に近い位置にある。

ビンガム運河のおかげでタナアバン地区から伐り出されるチーク材や他の諸物資がバタヴ
ィアに届く効率が向上し、また運河の水流がサトウキビ搾り、食糧粉作り、火薬作りなど
に利用されるようになって、運河の両岸に水車が立ち並んだ。モーレンフリートという言
葉はその風景に由来している。[ 続く ]