「バタヴィアのフレンチクオータ(12)」(2026年01月12日) それから90年ほどが経過して、バタヴィア周辺の土地をたくさん買い占めたバタヴィア 行政高官ユスティヌス・フィンクがタナアバンとスネンの自分の所有地にパサルを設けた。 ふたつのパサルのオープニングは1735年8月30日に同時に行われた。 スネンのパサルは最初ヴェルテフレーデン市場と名付けられたという解説があり、また月 曜日が市日だったためという説があり、設立者の名前からVinckpasserと呼ばれたという ものまで種々にある。 フィンクは1733年から1749年までヴェルテフレーデンの地所の所有者になった。 ヴェルテフレーデンという地名はダンデルス総督時代に付けられたものではない。後にダ ンデルスがバタヴィア行政府を城市の外に移したとき、新しいバタヴィアの中心街がヴェ ルテフレーデンと呼ばれた。そのときのヴェルテフレーデン区域はパサルスネンからグヌ ンサハリ通りを隔てて西側の区画であり、パサルスネンはヴェルテフレーデンに含まれて いなかった。 元々その一帯の土地をヴェルテフレーデンと名付けたのは後にデポッにキリスト教の楽土 を開いたコルネリス・シャステレインだった。ガンビル、マンパン、カランアニャル、チ リウンなどに土地を持って、そこでコーヒー・サトウキビ・コショウ・コメなどの商品作 物栽培を行ったシャステレインは、バタヴィアにもっとも近い位置にある今のガンビル地 区の土地を拡張するために1704年に周囲の土地を購入して広大な農園を作り、その地 をヴェルテフレーデンと名付けたのである。かれはそこでコーヒー栽培をトライしたので、 東インド最初のコーヒー農園はヴェルテフレーデンに誕生したという話になっている。 パサルスネンは最初月曜だけが市日だった。1751年には月・金が市日になり、176 6年には毎日開設することが許可されたものの、1813年になって日・火だけに制限さ れた。名前が変わらなかったのが不思議だ。 この二つのパサル間の交通の便を高めるためにフィンクは運河を作ったと書いている記事 もあれば、道路を作ったと述べている記事もある。運河については、クブンシリ通り西端 からチデン川に沿って東に向かい、更にプラパタン通り沿いに少し北よりに上がってパサ ルスネンの南に接し、スプラプト通りに沿って東側を流れるスンティオン水路につなげら れ、その運河沿いに道路もできて交通の便が大いに向上した、と解説されている。 そのころはまだ昔ながらの河川交通が主要交通手段だったから、ボゴール方面から流れて 来る川の網の目を通ってデルタ地帯にやってくる船や筏が川や運河を行き交い、そこで水 浴や洗濯や排便をしている地元民にぶつけて交通事故を起こさないように操船者は慎重運 転をしなければならなかった。 タナアバン市場は最初、竹編み壁とパーム椰子の葉の屋根というとても質素な姿でオープ ンした。1740年に起こった華人街騒乱Chinezenmoordのおかげで市場建物は大きく損 壊した。騒乱の後、VOCはバタヴィア城市内に住んでいた華人に居住禁止を言い渡し、 城壁のすぐ南側に位置するグロドッ地区を華人居留地区に指定して移住させた。しかしモ ーレンフリート両岸からタナアバンに至るまでの運河沿いにも中華様式の住宅が増加した のは、その時の華人向け居留地政策の内容が後に作られた同名の政策と異なっていたから だろう。 オランダ時代にTanah AbangまたはTanah Abang Westと呼ばれたアブドゥルムイス通りの 南端がTanah Abang Bukitだ。植民地時代から独立後の時代までその一帯はショウガ畑や 農園、そしてヤギの放牧場になっていた。1980年ごろまで、そこに空軍の総司令部が 置かれていた。 今は狭い下水路のようなアブドゥルムイス通り脇の運河は元々、はるかに幅広い運河だっ た。タナアバンとバタヴィア城市の間を大量の物資を乗せて往復する船や筏を通すために は、今見えているようなあんな水路では二進も三進も行かないだろう。この運河にも、運 河沿いに建物が増えていった。[ 続く ]