「バタヴィアのフレンチクオータ(13)」(2026年01月13日)

1795年になってVOCは、レイスヴェイク要塞跡地に建設中だった高級社交場ハルモ
ニから西に少し離れた土地に広い墓地を設けた。プトジョ地区南部のその墓地はタナアバ
ン地区に属したのでタナアバン墓地とも呼ばれたが、パサルタナアバンからはだいぶ離れ
ている。

埋葬される遺体はバタヴィア城市内やモーレンフリートなど城市外の運河を船に乗って下
り、その墓地に送られた。今のアブドゥルムイス通りに作られた上陸場から埋葬場所まで、
周辺のカンプン住民の荷車をチャーターして葬儀の一行は棺を運んだ。墓地のおかげでカ
ンプン住民の稼ぎが増えたそうだ。

その墓地の一部は現在Museum Taman Prasastiになっており、他の一部は中央ジャカルタ
市庁舎、そして住民の居住地にもなっている。その墓地の他にもタナアバン地区には墓地
がたくさんあったために、市場で切り花も売られた。今でもタナアバン市場の外の商店街
に花屋が目立つのはその伝統のせいだ。


19世紀最後の四半期頃にハドラマウトから移住してきたアラブ人がタナアバン地区(中
でもクブンカチャンエリアがその中心)に大勢住むようになると、タナアバン市場にブタ
ウィ人のヤギ売りが増加した。ヤギ市場があらたに設けられたということでなくて、従来
からの市場にヤギ売りが増えたということのように思われるのだが、ヤギ売りは他の市場
商人と異なる扱いをされていたという話もある。

その現象のせいで、今は巨大なテキスタイル市場であるパサルタナアバンはかつてPasar 
Kambingをも別名にしていた。カンビンとはヤギのことだ。そして面白いことに、時の流
れに連れてその一帯にヤギを使う料理の作り売り屋台やキオスが増加するようになった。
sate, gulai, marak, sop, semur, nasi kebuli....言うまでもなくそれらの言葉の後に
kambingが付く。

人間とは面白いものだ。昔は家庭用の食材として売買されていたカンビンに一般消費者が
手を出さなくなり、その食材は食べ物作り商売人のルートに流れるように変化して、一般
消費者は商売人が作る料理を買うようになった。これも金銭が生み出した効果のひとつだ
とわたしは考えている。これに関するかぎり、わたしは社会分業という視点を拒否してい
るのだ。そんな高尚な理由よりも、もっと泥臭い人間的な性癖が金銭の恩恵をこうむって
その変化を実現させたのではないかという分析にわたしは傾いている。

それほど古くない時代にジャカルタ中の名声を獲得したクエプトゥ売りも、タナアバン市
場の周囲で商売するひとりだった。


もっと時代が下がるとタナアバン市場にヤギが出現するのは犠牲祭シーズンだけになって
しまった。そのシーズンにはタナアバンだけでなく街中のあちこちに家畜市が立つから、
昔のタナアバン市場に冠せられていたパサルカンビンの名とその現象を結び付けるブタウ
ィ人は年寄りばかりになっている。

イドゥルアドハの祝祭が終わればヤギはまたカンプンの片隅に戻され、タナアバンも含め
てジャカルタ市内からその姿が消える。ジャカルタにはもう、パサルカンビンは存在し得
ないのだ。消費者が一年を通して料理する肉は市場で食材として売られている家畜ではな
くなった。一般消費者の食生活行動の中に食材としての家畜(生き物状態のもの)は存在
しない。

タナアバン市場がヤギ市場の面影を持っていた時代には、タナアバンから遠く離れたエリ
アでSate dan Sop Tanah Abangの看板を掲げた屋台や食堂が目に付いた。そこで使われて
いるタナアバンという地名はカンビンの代名詞になっている。だがブタウィ人が言うには、
そういう商売に携わっている料理人はタナアバンの地元民ではなくて、大概がタナアバン
市場周辺で商売しているタナアバン地元のブタウィ人に雇われて仕事していた外来者なの
だそうだ。

そう名乗ること自体に何も悪いことはないが、料理に地名を付けるのは料理人が故郷の料
理を自分の文化として作るのが一般的なふるまいだったために、その種の誤解を誘発する
センシティブさをそのブタウィ人は指摘したように思われる。

1926年にタナアバン市場の建物は頑丈な恒久資材を使った三つの長棟に改築された。
日本軍政期にはタナアバン市場での商いがまったくストップし、市場建物は浮浪者の巣窟
になっていたそうだ。軍政期のジャカルタ市民生活は物資の欠乏と種々の規制のために何
もかもが不足し、どこの市場も機能しなくなっていたのではあるまいか。[ 続く ]