「バタヴィアのフレンチクオータ(終)」(2026年01月15日)

インドネシアにレフォルマシの風が吹き始めてから、タナアバン市場界隈にアフリカ人の
姿が目立つようになった。かれらは東南アジア最大のショッピングセンターであるタナア
バン一帯でありとあらゆる商品をまとめ買いし、国外に送り出していた。

アフリカ人はジャティプタンブラン地区を居住地に選択した。KSトゥブン通り東端にあ
ってタナアバン市場と5百メートルくらいしか離れていないホテルプタンブランに入れば、
あたかもアフリカの都市にやって来たような気になる。トゥブン通りもNigeria通りと綽
名されるようになり、口さがない者はカンプンネグロと形容した。日中から夜中まで、カ
フタン姿のアフリカ人男女が行き交っているのだ。そのうちにプタンブラン地区にあるプ
タンブラン第二、ハルラン、アラマンダなどのホテルもホテルプタンブランの後を追った。

タナアバン地元民のひとりは、アフリカ人の到来が始まったのは1997年の通貨危機が
発端だったと語る。ナイジェリア人が大半を占め、インドミー・タバコ・ファスナー・ボ
タン・タイル・録音用カセットテープ・自動車タイヤ・練り歯磨き・固形石鹸・医薬品・
編み篭などありとあらゆる品物を大量に買って米国に持って行く者もいたが、マジョリテ
ィは衣料品を大量に買って自分の国に持ち帰ったり発送していた。

かれはその状況に商機を見出し、クブンカチャンにある自分の店にアフリカ人の求める品
物を集めてアフリカンビジネスに特化していった。そればかりか、その店の奥を改造して
アフリカ人に部屋を貸すことまで始めた。

アフリカ人がブタンブラン地区でホテル暮らしを始めると街中にその姿が目立つようにな
った。地元民は誰しもがその光景に奇異の念を抱いた。ところがそのうちに慣れてくると、
地元民はアフリカ人に部屋貸しをするようになった。挙句の果てに下宿人を家族扱いする
ようになり、その家の娘を妻にして入り婿になるアフリカ人すら出始めた。もちろん子供
を作って舅姑に孝行している者が大勢いる。

プタンブラン地区にアジアアフリカトレードセンターがオープンし、タナアバンでビジネ
スするアフリカ人の本拠地になった。トレードセンターにいたナイジェリア人のひとりは、
こんな話をした。

タナアバンはナイジェリア人だけじゃなく、ガイアナ・ラゴス・コートジボワール・カメ
ルーン・マリ・アンゴラ・ソマリア・エチオピアなどから来ている者たちにとっても、フ
ェイバリットNo.1の土地ですよ。商品の品質が良く、廉価で、入手しやすい。台湾や香港
で仕入れる品物よりも値段が廉くて品質が良い。わたしは毎月衣料品や雑貨品をコンテナ
百本ナイジェリアに送ってます。コンテナ1本に衣料品を10トン超詰めればおよそ25
万米ドル。タイルは3千米ドルで医薬品なら10〜15万米ドル。


一時期、ジャカルタに住み着いたアフリカ人の中に麻薬商売やニセ札詐欺に手を出す者が
急増してイメージが極度に悪化しかことがある。その種の者たちはみんな金回りがよく、
パリッとした服装をし、プリブミ女性を情婦に持ち、プリブミ社会を睥睨してその巨体で
威圧し、官憲に対してすら畏れ入る態度を示さない。

首都警察の麻薬取締捜査に関する新聞記事にアフリカ人の登場するものが続いていた時期
があった。中には銃撃戦が行われたこともあったようだ。しかしそんな時期ですら、タナ
アバンやプタンブランで堅実にポジティブな生き方をしているアフリカ人も少なくなかっ
た。繊維製品の買付け仕事を行って商品をアフリカやヨーロッパに発送し、その傍らで食
べ物屋や商店を開いたり、あるいはホテルの部屋を借りてそこをショールームにしたり店
として使用している者たちもいた。ホテルジャティプタンブラン一階にある50室はそん
な用途にされていたそうだ。そんな中に、悪人もいたが善人もいた。概して、悪人はほん
の一部であり、マジョリティは善人であるというのがユニバーサルな真理であるようだ。
その真理は肌の色を問わない。

アフリカ人のコミュニティができれば、かれらの中にはコミュニティ仲間を対象にして商
売を始める者も出る。アフリカ料理を供するレストランもプタンブラン地区にオープンし
た。有名なそのひとつはテキスタイル博物館近くのSate Afrika。アフリカ人客に劣らな
いくらいプリブミ客も入って繁盛しているそうだ。[ 完 ]