「スカルノのジャカルタ(12)」(2026年02月01日) 午前7時には百人くらいが集まってきたのが部屋の窓から見えた。9時ごろには家の表ベ ランダの前に5百人くらいが立っていた。熱があって悪寒が身体を震わせる状態にあった スカルノはベッドでうつらうつらしていたが、ファッマワティ夫人が起こしに来たのでベ ッドから出た。眠ったのはほんの数分だった、とスカルノは回想録筆記者に語っている。 スカルノに近い関係にある青年たちの中に屋内のスカルノに向かって外から叫ぶ者がいた。 「宣言を行え。今すぐに!」外は太陽が高くなって暑さが増して来た。おまけに日本軍部 隊がやってきて式典をぶち壊す不安をかれらは一様に抱いている。 スカルノと面識のある社会有力者たちがスカルノと言葉を交わすために邸内に入って来る。 かれらの中にも、早く宣言をしたほうがよい、と勧める者がいる。スカルノはかれらに言 った。「ハッタがまだ来ていない。ハッタのいない場で宣言を行えば、インドネシアは統 一国家になれないだろう。わたしはジャワ人でハッタはスマトラ人なのだから。」 独立宣言式典の保安警備の任に就いたのはBarisan Peloporだった。バリサンプロポルは スカルノが1944年にジャワ奉公会の中に設けた治安部隊で、日本語では推進隊と呼ば れた。STOVIAで医学を修めてドクトルジャワの免状を持っているドクトル ムワルディが バリサンプロポルの統率者だ。 東インド政庁のSTOVIA設立はプリブミ社会に対する保健政策のひとつであり、多数の補助 医師を育成してプリブミ社会の医療体制構築と保健衛生改善を広く行わせるのが目的だっ た。だから東インドの西洋人社会はドクトルジャワを医者と認めていなかった。オランダ 本国の医科大学を卒業して医師免状を得たプリブミだけが西洋人を診察できた。 大群衆に膨れ上がったスカルノ邸の周辺一帯を目の当たりにして、そのドクトル ムワル ディまでもが今から宣言をしてはどうかとスカルノに勧めた。こんな状況に日本軍部隊が やってきて群衆を蹴散らせばたいへんな混乱になるだろう。しかしスカルノは規律正しい 振舞いをした。「10時と決めてあるのだから、10時に行う。おまけにハッタ君がいな い場でわたしは絶対にそんなことをしない。ムワルディ君が待てないと言うのなら、君が 宣言したらいい。」 そんな会話をしているときに、外でざわめきが起こった。「ハッタが来た。ハッタが来た。」 という声が聞こえた。ハッタは10時5分前に到着して邸内に入った。白の上下スーツで ベランダに出てきたふたりは、スカルノが前面中央のマイクに歩み寄り、ハッタは少し離 れた後ろに立ってスカルノを見守った。スカルノは独立宣言文を読み上げたあと、その場 で神への祈りを捧げた。後ろに立っているひとびとも一緒に黙とうしている写真が残され ている。インドネシア国旗が掲揚され、国歌が合唱され、式典は素朴なスタイルで粛々と 展開されておよそ1時間で終了した。 式典が終了した後、プンジャリガン地区からバリサンプロポルの一隊が会場に到着した。 およそ20キロを徒歩行進し、汗びっしょりになってやってきたその一隊は独立宣言を聞 かせてほしいとスカルノに頼んだ。しかしスカルノはそんな道化を演じるわけにいかない。 それでもかわいそうと思ったのだろう。スカルノは全群衆に向けて、独立ということの意 味を理解させるためにスピーチを行った。 1945年9月2日に業務を開始したインドネシア共和国最初の内閣は、東プガンサアン 通り56番地のその家が叙任の舞台になった。スカルノは1946年1月3日夜にヨグヤ カルタに脱出するまで、その家で国政の業務を行ったようだ。コニングスプレインパレス、 つまり現在のムルデカ宮殿はその時期に第16軍司令官官邸として使われており、インド ネシア人はイスタナサイコシキカンと呼んでいた。(日本軍)最高指揮官宮殿という意味 だ。インドネシア共和国政府がそこを使うわけにはいかない。[ 続く ]