「ノルドヴェイク(1)」(2026年02月01日)

VOCはバタヴィア城市外周辺エリアの防衛と治安の確保を図って、南部と南東部に軍事
拠点を設けた。城壁南中央の大門から3.5キロほど南の水田地区にRijswijk Fort、そ
こから東に1キロ超離れた家畜放牧地区にNoordwijk Fortがそれぞれ、1656年と16
57年(あるいは1658年)に建てられている。

オランダ人が設けた軍事防衛施設はkasteel(castle), fort(fort), vesting(fortress), 
redoute(redoubt), bastion(bastion), batterij(battery)などに区分され、機能や規模
に従って名称が使い分けられていた。( )内は英語の対応語彙。

バタヴィア城市内東岸北端に作られた要塞はVOCがkasteelに分類したので本来的に城
と呼ばれるべきものと思われるが、日本人の中にバタヴィア城という言葉をバタヴィア城
壁都市の意味で使うひとが混在しているようで、その種のひとびとはオランダ人の言うカ
スティルバタヴィアをバタヴィア要塞と翻訳していると思われる。日本語論説に書かれて
いるバタヴィア城という言葉は多義性を持っているということになるだろう。


レイスヴェイクとノルドヴェイクに建てられた軍事拠点をRijswijk Redoute、Noordwijk 
Redouteと書いている論説もある。レドゥーツはフォルトほどの規模でないものを指し、
軍事的なウエイトに差があるように感じられる。日語ウィキペディア「ルドゥート」の項
には方形堡、角面堡、とりで、要塞、などという日本語訳が記されている。

レイスヴェイクフォルトは「レイスヴェイクポスト」とも呼ばれていた。広さおよそ75
x38メートルのこの軍事ポストは水濠に囲まれた四辺形の構造をしており、南東と北西
の角にはバスティオンがあって、8門の大砲が置かれていた。土を盛り上げて築かれたこ
の軍事施設には東と西に出入り口が設けられて水濠を渡る橋が備えられ、内部には指揮官
室・見張り台などの建物があり、また外にも西側に木造の見張り塔が建てられた。その見
張り塔がJaga Monyetと綽名されたらしい。そしてジャガモニェッはそこの地名になり、
20世紀が終わるころまで一般に通用していた。

仮想敵バンテン王国の侵攻を見張るのが主目的だったものの、監視兵の平和な日々を騒が
すのは野生の猿どもばかりであり、そのうちに兵士たちがその監視任務を猿監視と自嘲す
るようになったことをその地名は物語っているように思われる。

レイスヴェイクという地名はその地区一帯が水田になっていたためにオランダ人がそう命
名したと言われている。ジャヤカルタ時代からそこで水田耕作が行われていたそうだ。レ
イスヴェイクフォルトがあった場所は現在のハルモニ交差点北西のBTNタワーの地点だ。
この軍事拠点は1697年に廃棄されて1729年に取り壊された。


ノルドヴェイクフォルトの方は、要塞の東側に広がるVOC高官Anthony Paviljoenの私
有地の一部が放牧場になっていたので、牧畜動物の盗難防止が日常の重要任務になってい
たという説明が見られる。

アントニー・パフィリユンは1632年にWaterlooplein(今のLapangan Banteng)を中
心にして今のガンビル地区まで広がるエリアの地主になり、バタヴィア城市住民への食糧
供給のためにその土地を華人に貸してサトウキビ農園や野菜畑を作らせ、また食肉用の家
畜を放牧していた。そのためにそのエリアの地名は地主の名を採ってPaviljoensveldと呼
ばれていた。

その土地をCornelis Chasteleinが買い取り、シャステレインは周辺の土地を買い足して
自分の私有地を拡張し、そこでさまざまな農園事業を行った。シャステレインは自分の私
有地をWeltevredenと名付け、後にダンデルスがバタヴィア行政センターをバタヴィア城
市内からそこに移したので、ヴェルテフレーデンの名が不滅のものになった。

ヴァーテルロープレインの今の名称であるバンテン広場のバンテン(野牛)という言葉は
スカルノ大統領が与えたものだが、1644年にVOC総督以下バタヴィア城市住民8百
人がそこで野牛狩りを行ったという記録があるそうだ。

スカルノ大統領はバンテン広場の南側にあった東インド植民地軍将校住宅地区を取り壊し
て5星級ホテルを建てることを計画し、その名をバンテンホテルと決めていたが、G30
S事件で政権交代が起こり、スハルト大統領がホテルボロブドゥルに名前を変えてオープ
ンした。公式オープニングは1974年3月23日だった。ノルドヴェイクフォルトに話
しを戻そう。[ 続く ]