「ノルドヴェイク(2)」(2026年02月02日)

やはり四辺形で四隅にバスティオンを備えたこの軍事拠点は入り口から防御壁までの距離
が25メートルしかなかったのでレドゥーツと呼ばれるほうが一般的だったそうだ。北東
角のバスティオンには警報のための鐘が吊るされ、西側の防壁には正門があり、外には調
理場があった。西側から北側にかけては水の豊かな湿地帯になっており、たくさんの水鳥
が徘徊していた。南側は空濠で、その上に橋がかかり出入口が設けられていた。

内部はプリブミ兵士のための木製ベッドが並ぶ広い兵舎と防衛隊指揮官(伍長)の部屋、
そして砲手用の部屋に分かれていた。1697年ごろには部隊員の人数も大砲の数も減ら
されて、衛兵の任務は水門の管理と通過する高官への敬礼ばかりになっていたという話が
語られている。

その水門というのは、ノルドヴェイク要塞のすぐそばに1699年に設けられたものだ。
バタヴィア第3代カピテンチナの潘明岩プア・ベンガンPhoa Beng Ganが1648年にバ
タヴィア城市の南にグロドッからタナアバンまで達する運河を建設したあと、既に設けた
南北方向の運河の水量を確保するために1650年代に東のチリウン川支流から一直線の
運河を作って水を引いた。その運河の東西方向の両端にレイスヴェイクフォルトとノルド
ヴェイクフォルトが建てられたのである。ただし、運河が先だったのか要塞が先だったの
か、それとも同時だったのか、その前後関係がよくわからない。

その東西方向の運河が設けられたあと、運河側に取りこむ水量のコントロールを目的にし
て橋の下に水門が作られた。こうしてVOC時代に水門橋Sluisbrugという地名が生まれ、
今はPintu Airというインドネシア語の地名になっている。

現在のジュアンダ鉄道駅南東にあるショッピングセンターRaffles Squareの南ゲート辺り
にあったこの軍事拠点はダンデルスが解体を命じて1808年に取り壊されている。


1910年ごろ、そのラフルズスクエアの場所にKoninklijke Paketvaart Maatschappij
の本社ビルがあった。オランダ東インドの島々にある30の港を結んで海上航路の網の目
を構築したのが王立海運会社KPMだ。1923年にKPMは本社ビルをそこからヴィル
ヘルミナパルクを越えた南側にあるKoningsplein Oost(今のJl Medan Merdeka Timur)
に移した。現在インドネシア共和国運輸省海運総局の入っている建物がそれだ。当時世界
最大の海運会社のひとつと言われたKPMは1957年にインドネシア政府が国有化して
国有海運会社PT Pelayaran Nasional Indonesia略称PELNIに変えた。KPM本社ビルはイ
ンドネシア政府が使用した。

1888年、オランダ東インド政庁はたくさんの島で構成されているこの植民地の海上交
通路を構築するために国有の船会社を設立したのである。生まれたてのKPMは13隻の
蒸気船を持って1891年に海運事業を開始した。もちろん事業領域には国内だけでなく
国際航路も含まれていた。ジャワ=オーストラリア航路の一部として、1908年にはス
ラバヤ〜スマラン〜バタヴィアを結ぶエクスプレス航海がスタートした。1915年には
ブラワンデリ=南シナ海航路が新設され、航路はビルマのラングーンまで延ばされた。1
927年にサイゴンとマルクを結んで定期航海が行われた。

KPMの最盛期には総計26万GTに達する所有船舶136隻が各地の海原を疾駆して12
5万人の乗客と350万トンの貨物を運んだと言われている。

ラフルズスクエアと鉄道線路を隔てて西側にある区画の東南角は今、漁民階層の全国組織
本部の入っている商業施設のようだが、ジュアンダ通りとジュアンダI通りの角地には1
9世紀後半にバタヴィアで有力な履物生産販売店があった。その名をNicolas Pascalと言
う。Fabricant de Chaussures de Parisを謳い文句に掲げたニコラス・パスカルは185
0年ごろからバタヴィアの履物業界のトップランクを走り続けたようだ。この店は当時の
新聞に「靴の大洪水」というキャッチフレーズを出していたものの、1886年以降その
宣伝広告は新聞に出て来なくなった。[ 続く ]