「スカルノのジャカルタ(13)」(2026年02月02日) 1945年11月にジャカルタを占領したAFNEI軍はオーストラリアから戻って来たNICA (オランダ東インド文民政府)を支援した。インドネシアをオランダ東インド植民地に戻 す使命を負っているNICAが独立運動の首魁スカルノの生命を狙ったのも当然の帰結だ。 独立宣言後に設立されたインドネシア共和国政府がNICAの行うジャカルタ行政の中で安全 に存在できるはずがない。旧植民地軍を再編成したNICA軍によるインドネシア共和国要人 への暗殺行動が発生するようになったため、共和国政府はジャカルタからヨグヤカルタス ルタン国へ首都を移すことを決め、ひそかに汽車でジャカルタを去った。 1946年1月3日夜、スカルノ邸の裏を通っている鉄道線路に汽車がやってきて停まっ た。スカルノ・妻のファッマワティ・まだ赤児の長男グントゥル、そして一家の使用人た ちがハッタや他の大臣たちの一家と共にその汽車でジョクジャに向かった。汽車は明かり を点けずに夜闇の中を走り通し、1月4日早朝にヨグヤカルタ駅に到着した。 そのころ人口17万人だったヨグヤカルタの町はインドネシア共和国の首都になってから 数週間後に60万人の人口に膨れ上がった。共和国軍総司令部も新首都に移った。 スカルノ一家が去ったあとの東プガンサアン通り56番地にスタン シャッリルが入居し て1948年まで住んだ。1946年、その屋敷の表に女性活動家たちが独立宣言記念碑 を建てたとき、シャッリルがその完成を宣している。46年のジャカルタにおける第一回 独立宣言記念式典はその屋敷の表で行われ、シャッリルと記念碑が主要な役割を演じた。 1948年12月19日にNICAはヨグヤカルタ占領の挙に出た。スカルノはスディルマン 将軍に対NICA抵抗戦をゲリラ戦争で行うよう命じ、更に西スマトラの共和国勢力に臨時共 和国政府を樹立させて政権を引き継がせ、自分は他の政治家たちと共にNICAの捕虜になる 道を選んだ。逮捕した共和国首脳陣をNICAは北スマトラのパラパッに流刑し、そのあとバ ンカ島に移した。 国際世論はインドネシアで行われている植民地主義者の暴虐非道に向けて批判の合唱を放 った。第二次大戦後のヨーロッパ諸国に経済復興を支援するためのマーシャルエイドを与 えていた米国は、インドネシアで起こっている状況を問題視した。援助資金が植民地で軍 事費として消費されるのはマーシャルエイドの趣旨に反している。 オランダ本国政府に米国の圧力がかかり、オランダ政府はNICAの軍事行動を抑え、インド ネシアに連邦共和国を作らせてオランダ王国のコモンウエルスとして提携する形を基本方 針に据えた。NICAは忌み嫌っていたスカルノを連邦共和国大統領として遇し、スカルノの 手を握らねばならない立場に立たされたのである。自分の主義主張や好き嫌いで動く人間 は長持ちする政治家になれないだろう。 ルムロイエン協定が1949年5月7日に調印され、インドネシア共和国首脳部は流刑地 から解放された。続いてその年の8月23日から11月2日までオランダのデンハーグで 円卓会議が開かれ、その結果に沿ってスカルノを大統領、ハッタを内閣首班とするインド ネシア連邦共和国が結成され、12月27日にオランダ国王のユリアナ女王がインドネシ アの国家主権を承認した。 円卓会議の中でオランダ側がインドネシア側に45億フルデンの支払いを要求し、インド ネシア側がそれを受けた事実がある。それは独立させてやるための補償金、あるいは独立 させてもらった謝礼金などでは決してない。その支払い要求はNICAがインドネシアを植民 地に戻すために消費した戦費に対する賠償要求でしかないことが理解されなければならな いだろう。独立承認に直接関わる支払いではなかったのである。オランダはマーシャルエ イドから軍事費に流用した分をインドネシアから取り戻そうとしたのだろうか。 スカルノとハッタはオランダがインドネシアに国家主権を与えようとしているその場の状 況に鑑みて、その要求を即座に受けた。そしてその支払いは分割払いにされ、また支払い 延期がなされた結果2003年にやっと完済している。国家間の支払い契約は払う側のほ うが強いという実例のひとつがこれだろう。[ 続く ]