「ノルドヴェイク(3)」(2026年02月03日)

17世紀後半にはレイスヴェイクとノルドヴェイクを結ぶ運河の両岸に道路ができていた
ようだが道路沿いにはプリブミの小さい集落や華人のワルンがあった程度で、VOC退職
高官の所有地のほうが広いエリアを占め、人間の居住はあまり見られなかった。

19世紀初期にダンデルスがバタヴィア城市内からヴェルテフレーデンに行政府を移し、
レイスヴェイク地区に社交場や総督宿舎が設けられたために運河の南側がエリート地区に
なった。その社交場ハルモニクラブを完成させたラフルズはレイスヴェイクエリート地区
の中ほどに建てられた屋敷を買い取って宿舎兼仕事場にした。ラフルズはジャワ島を去る
に当たってその屋敷をオランダ東インド政庁に買い取らせている。

1840年にその屋敷はHotel Palace Royaleとしてオープンし、1846年にHotel der 
Nederlandenに衣替えした。インドネシア共和国になってからその建物は1950年代に
Hotel Dharma Nirmalaと名を変え、そのあとそこにスカルノ大統領親衛隊チャクラビラワ
の司令部が置かれた。政権が交代してからスハルト大統領の時代に取り壊されてスハルト
の執務館ビナグラハに建て替えられている。


ラフルズ総督はその運河の北側の道ノルドヴェイクと南側の道レイスヴェイク、そしてハ
ルモニ交差点から南に下るレイスヴェイクストラート(今のJl Majapahit)をヨーロッパ
人地区に指定して非ヨーロッパ人の居住を禁止した。その道路沿いに住んでいたプリブミ
や華人アラブ人たちは引っ越しを強制されたということになる。

こうしてそれらの道路沿いはヨーロッパ人の商店・ブティック・ワークショップ・ホテル
・レストラン・オフィス・政府機関・文化活動場所などで満たされてバタヴィア最高のエ
リート地区になった。

運河北側のノルドヴェイクという名の道路の北側の土地がノルドヴェイクという地区名称
で呼ばれるようになり、一方運河南側のレイスヴェイクという名の道路の南側の土地区画
にはレイスヴェイクという地区名称が与えられた。多分この道路名と地区名は裏表の関係
にあって、同時進行したのではないかと推測される。


現在のジュアンダ駅を通る鉄道線路を東端、モーレンフリート運河を西端、ジュアンダ通
り南側の運河を南端、サワブサール通り(今はJl Sukarjo Wiryopranoto)を北端にして
囲まれているエリアは現在Kebon Kelapa町という行政区画になっている。そこがノルドヴ
ェイク地区の核心部分だったのではないだろうか。しかしその外側までノルドヴェイクと
いう地区名称で呼ぶひとも少なくなかったようで、地域の行政区画区分名称でその外側エ
リアまで一緒くたに呼ぶ人間の習慣は古今東西ユニバーサルなものだったようだ。

クボンクラパ町という名称はオランダ時代にその町内区画の中央付近にプリブミ伝統集落
のKampong Kebon Kelapaがあったことに由来している。バトゥトゥリス通りとノルドヴェ
イク通りの中間くらいの位置に広いヤシ畑があり、それが地区の特徴として採り上げられ
たように思われる。

バトゥトゥリス通りの北をほぼ並行して通っているBerendrechslaan(今のJl Batuceper)
とサワブサール通りの間にはKampong Sawah Besarがあった。ということは、それらふた
つのカンプンの間にあるバトゥチェペル通りとバトゥトゥリス通りの一円は都市開発の結
果生まれた外来者たちの居住地区ではないかという推測が生じる。それが当たっているか
どうかは別にして、このクボンクラパ町のエリアは華やかなバタヴィアセンター地区にで
きた裏町という印象があり、歴史的にも興味深いエリアではないかという気がわたしには
するのである。[ 続く ]