「スカルノのジャカルタ(14)」(2026年02月03日)

インドネシア連邦共和国はNICAが親オランダ派プリブミを起用して6州と9自治領を作ら
せ、スカルノのインドネシア共和国と一緒に連邦を形成させたものだった。連邦共和国政
府ができあがると、現地軍に肩代わりさせてNICAはそれらの傀儡領土から軍隊を順次引き
揚げさせた。するとNICA軍がいなくなった傀儡国や傀儡自治領が住民の意志を建前にして
政体を解散させ、インドネシア共和国への帰属を表明しはじめた。連邦を構成していた各
政府がスマトラ島大部分とジャワ島西端およびヨグヤカルタ王国領だけを領土にしている
インドネシア共和国に続々と合併したのである。

1950年8月に最後の東インドネシア国がそれを行ったとき、インドネシア連邦共和国
は統一インドネシア共和国Negara Kesatuan Republik Indonesiaへと移行した。一年にも
満たない連邦共和国の一生だった。オランダはスカルノとハッタにいっぱい食わされたと
いう見方ができそうだ。

主権移譲式典はオランダとインドネシアで1949年12月27日に同時に行われた。オ
ランダで午前10時に行われた式典は、インドネシアでは黄昏迫る夕刻に開始された。ジ
ャカルタでの主権移譲式典はコニングスプレイン北側の東インド総督宮殿でスルタンハマ
ンクブウォノ9世とオランダ王国代表部トニー・ロフィンの間で行われ、集まった数千人
のインドネシア人の前でオランダ国旗が降ろされて紅白旗が掲揚された。NICAはその前に
ジャカルタ市政を1949年12月24日にインドネシア側に移譲している。

そのときスカルノはジョクジャにいて、ジョクジャの大統領宮殿でメステルアサートから
主権の移譲を受けた。スカルノの一家がヨグヤカルタからジャカルタに戻ったのはその翌
日の1949年12月28日だった。ヨグヤカルタからガルーダ航空所有のダコタ機でジ
ャカルタのクマヨラン空港に11時40分に到着したスカルノは、出迎えに集まった1千
人を超えるジャカルタ市民にスピーチしてから車でコニングスプレイン宮殿へ向かった。
スカルノ一家の乗ったオープンカーはグヌンサハリ〜パサルスネン〜パサルバルを経てコ
ニングスプレインに達した。沿道には多数の市民が群がり、「ムルデカ」の叫び声を大統
領一家の乗った車に浴びせかけた。

車がコニングスプレイン宮殿に到着したあと、民衆の歓呼の声に誘われて宮殿の表テラス
に出てきたスカルノは、周辺を埋め尽くした市民に歓びのスピーチを行い、その宮殿の名
称を今からムルデカ宮殿とすることを告げた。その日以来、スカルノの一家はムルデカ宮
殿に住み、東プガンサアン通り56番地の屋敷には戻らなかった。

もちろん休日には一家を上げてボゴール宮殿に泊まり、涼しい高原の空気と大自然を楽し
んだ。東プガンサアン通り56番地の邸宅はかれが懐かしむ場所でなくなっていたようだ。
そればかりか、独立宣言を挙行し、インドネシア共和国草創期の政務を執り行ったその由
緒ある家をスカルノは取り壊したのである。


1958年、スカルノは国家建設評議会Dewan Perancang Nasional(略称Depernas)を新
たに設けてモハマッ・ヤミンに統率させた。評議会本部ならびに国家建設の歩みを国民に
見せる展示場として大型ビルが建設されることになり、スカルノはそのビルを東プガンサ
アン通り56番地に建設するよう命じた。その建設のために独立宣言の舞台になった家屋
は1960年代に取り壊され、1946年に有志が建てた独立宣言記念碑も姿を消した。

1961年に建てられて後にGedung Polaと呼ばれるようになったそのビルには、Gedung 
Pola Rencana Pembangunan Semestaという正式名称が与えられた。設計者はスカルノのお
気に入りだった建築家フリードリッヒ・シラバンだ。現在グドゥンポラの公式名称は独立
先導者館Gedung Perintis Kemerdekaanになっている。

国家独立に大きな役割を果たしたその家の取り壊しについて、スカルノがその心中をあか
らさまにしなかったために、スカルノの暴挙に反対する声が世の中に満ちた。国家の重要
な記念碑的建築物が消滅すれば、歴史的大事件の社会記憶もあやふやになっていくだろう。
自分自身が独立宣言を発した人間でありながら、ブンカルノはどうしてそのようなことを
するのだろうか?[ 続く ]